は驚いた。「僕のパラオ語の先生」とH氏は私に紹介した。H氏は今パラオ地方の古譚詩の類を集めて、それを邦譯してゐるのだが、其の女は――マリヤンは、日を決めて一週に三日だけ其の手傳ひをしに來るのだといふ。其の晩も、私を側に置いて二人は直ぐに勉強を始めた。
パラオには文字といふものが無い。古譚詩は凡てH氏が島々の故老に尋ねて歩いて、アルファベットを用ひて筆記するのである。マリヤンは先づ筆記されたパラオ古譚詩のノートを見て、其處に書かれたパラオ語の間違を直す。それから、譯しつつあるH氏の側にゐて、H氏の時々の質問に答へるのである。
「ほう、英語が出來るのか」と私が感心すると、「そりや、得意なもんだよ。内地の女學校にゐたんだものねえ」とH氏がマリヤンの方を見て笑ひながら言つた。マリヤンは一寸てれた[#「てれた」に傍点]やうに厚い脣を綻ばせたが、別にH氏の言葉を打消しもしない。
あとでH氏に聞くと、東京の何處とかの女學校に二三年(卒業はしなかつたらしいが)ゐたことがあるのださうだ。「さうでなくても、英語だけはおやぢ[#「おやぢ」に傍点]に教はつてゐたから、出來るんですよ」とH氏は附加へた。「おやぢ[#「おやぢ」に傍点]と云つても、養父ですがね。そら、あの、ウ※[#小書き片仮名ヰ、404−12]リアム・ギボンがあれの養父になつてゐるのですよ。」ギボンと云はれても、私にはあの浩瀚なローマ衰亡史の著者しか思ひ當らないのだが、よく聞くと、パラオでは相當に名の聞えたインテリ混血兒(英人と土民との)で、獨領時代に民俗學者クレエマア教授が調査に來てゐた間も、ずつと通譯として使はれてゐた男だといふ。尤も、獨逸語ができた譯ではなく、クレエマア氏との間も英語で用を足してゐたのださうだが、さういふ男の養女であつて見れば、英語が出來るのも當然である。
私の變屈な性質のせゐ[#「せゐ」に傍点]か、パラオの役所の同僚とはまるで打解けた交際が出來ず、私の友人といつていいのはH氏の外に一人もゐなかつた。H氏の部屋に頻繁に出入するにつれ、自然、私はマリヤンとも親しくならざるを得ない。
マリヤンはH氏のことををぢさん[#「をぢさん」に傍点]と呼ぶ。彼女がまだほんの小さい時から知つてゐるからだ。マリヤンは時々をぢさん[#「をぢさん」に傍点]の所へうち[#「うち」に傍点]からパラオ料理を作つて來ては御馳走す
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