3水準1−84−49]《こうくわい》とには、固より大いに酬いる所があつたが、一夜宴に招いて大いに醉はしめた後、二人を馬車に乘せ、御者に命じて其の儘國外に驅り去らしめた。衞侯となつてからの最初の一年は、誠に憑かれた樣な復讐の月日であつた。空しく流離の中に失はれた青春の埋合せの爲に、都下の美女を漁つては後宮に納れたことは附加へるまでもない。
 前から考へてゐた通り、己《おのれ》と亡命の苦を共にした公子疾を彼は直ちに太子と立てた。まだほんの[#「ほんの」に傍点]少年と思つてゐたのが、何時しか堂々たる青年の風を備へ、それに、幼時から不遇の地位にあつて人の心の裏ばかりを覗いて來たせゐか、年に似合はぬ無氣味な刻薄さをチラリと見せることがある。幼時の溺愛の結果が、子の不遜と父の讓歩といふ形で、今に到る迄殘り、はたの者には到底不可解な氣の弱さ[#「氣の弱さ」に傍点]を、父は此の子の前にだけ示すのである。此の太子疾と、大夫に昇つた渾良夫とだけが、莊公にとつての腹心といつてよかつた。 

 或夜、莊公は渾良夫《こんりやうふ》に向つて、先《さき》の衞侯|輒《てふ》が出奔に際し累代の國の寶器をすつかり持去つたことを語り、如何にして取戻すべきかを計つた。良夫は燭を執る侍者を退席させ、自ら燭を持つて公に近付き、低聲に言つた。亡命された前衞侯も現太子も同じく君の子であり、父たる君に先立つて位に在られたのも皆自分の本心から出たことではない。いつそ此の際前衞侯を呼戻し、現太子と其の才を比べて見て優れた方を改めて太子に定められては如何。若し不才だつたなら、其の時は寶器だけを取上げられれば宜い譯だ。……
 其の部屋の何處かに密偵が潛んでゐたものらしい。愼重に人拂ひをした上での此の密談が其の儘太子の耳に入つた。
 次の朝、色を作《な》した太子疾が白刃を提げた五人の壯士を從へて父の居間へ闖入する。太子の無禮を叱咤するどころではなく、莊公は唯色蒼ざめて戰《をのの》くばかりである。太子は從者に運ばせた牡豚を殺して父に盟《ちか》はしめ、太子としての己の位置を保證させ、さて揮良夫《こんりやうふ》の如き奸臣はたちどころに誅すべしと迫る。あの男には三度迄死罪を免ずる約束がしてあるのだと公が言ふ。それでは、と太子は父を威すやうに念を押す。四度目の罪がある場合には間違ひなく誅戮なさるでせうな。すつかり氣を呑まれた莊公は唯々《ゐゐ》として「諾」と答へるほかは無い。

 翌年の春、莊公は郊外の遊覽地|籍圃《せきほ》に一亭を設け、墻塀、器具、緞帳の類を凡て虎の模樣一式で飾つた。落成式の當日、公は華やかな宴を開き、衞國の名流は綺羅を飾つて悉く此の地に會した。渾良夫《こんりやうふ》はもと/\小姓上りとて派手好みの伊達男である。此の日彼は紫衣に狐裘《こきう》を重ね、牡馬二頭立の豪奢な車を驅つて宴に赴いた。自由な無禮講のこととて、別に劍を外《はづ》しもせずに食卓に就き、食事半ばにして暑くなつたので、裘を脱いだ。此の態を見た太子は、いきなり良夫に躍りかかり、胸倉を掴んで引摺り出すと、白刃を其の鼻先に突きつけて詰つた。君寵を恃んで無禮を働くにも程があるぞ。君に代つて此の場で汝を誅するのだ。
 腕力に自信の無い良夫は強ひて抵抗もせず、莊公に向つて哀願の視線を送りながら、叫ぶ。嘗て御主君は死罪三件まで之を免ぜんと我に約し給うた。されば、假令今我に罪ありとするも、太子は刃を加へることが出來ぬ筈だ。
 三件とや? 然らば汝の罪を數へよう。汝今日、國君の服たる紫衣をまとふ。罪一つ。天子直參の上卿用たる衷甸兩牡《ちゆうじようりやうぼ》の車に乘る。罪二つ。君の前にして裘を脱ぎ、劍を釋《と》かずして食ふ。罪三つ。
 それだけで丁度三件。太子は未だ我を殺すことは出來ぬ、と、必死にもがきながら良夫が叫ぶ。
 いや、まだある。忘れるなよ。先夜、汝は主君に何を言上したか? 君侯父子を離間しようとする佞臣奴!
 良夫の顏色がさつ[#「さつ」に傍点]と紙の樣に白くなる。
 之で汝の罪は四つだ。といふ言葉も終らぬ中に、良夫の頸はがつくり[#「がつくり」に傍点]前に落ち、黒地に金で猛虎を刺繍した大緞帳に鮮血がさつと迸る。
 莊公は眞蒼な顏をした儘、默つて息子のすることを見てゐた。

 晉の趙簡子の所から莊公に使が來た。衞侯亡命の砌、及ばず乍ら御援け申した所、歸國後一向に御挨拶が無い。御自身に差支へがあるなら、せめて太子なりと遣はされて、晉侯に一應の御挨拶がありたい、といふ口上である。かなり威猛高な此の文言に、莊公は又しても己の過去の慘めさを思出し、少からず自尊心を害した。國内に未だ紛爭《ごたごた》が絶えぬ故、今暫く猶豫され度い、と、取敢へず使を以て言はせたが、其の使者と入れ違ひに衞の太子からの密使が晉に屆いた。父衞侯の返辭は單なる遁
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