。手當をしてゐる暇は無い。侍臣に扶けられつつ、眞暗な曠野を急ぐ。兎にも角にも夜明迄に國境を越えて宋の地に入らうとしたのである。大分歩いた頃、突然空がぼうつ[#「ぼうつ」に傍点]と仄黄色く野の黒さから離れて浮上つたやうな感じがした。月が出たのである。何時かの夜夢に起されて公宮の露臺から見たのとまるでそつくり[#「そつくり」に傍点]の赤銅色に濁つた月である。いや[#「いや」に傍点]だなと莊公が思つた途端、左右の叢から黒い人影がばら/\と立現れて、打つて掛つた。剽盜か、それとも追手か。考へる暇もなく激しく鬪はねばならなかつた。諸公子も侍臣等も大方は討たれ、それでも公は唯獨り草に匍ひつつ逃れた。立てなかつたために却つて見逃されたのでもあらう。
氣が付いて見ると、公はまだ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]をしつかり抱いてゐる。先程から鳴聲一つ立てないのは、疾うに死んで了つてゐたからである。それでも捨て去る氣になれず、死んだ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を片手に、匍つて行く。
原の一隅に、不思議と、人家らしいもののかたまつた一郭が見えた。公は漸く其處迄辿り着き、氣息奄々たる樣《さま》でとつつきの一軒に匍ひ込む。扶け入れられ、差出された水を一杯飮み終つた時、到頭來たな! といふ太い聲がした。驚いて眼を上げると、此の家の主人らしい・赭ら顏の・前齒の大きく飛出た男がじつ[#「じつ」に傍点]と此方を見詰めてゐる。一向に見憶えが無い。
「見憶えが無い? さうだらう。だが、此奴なら憶えてゐるだらうな。」
男は、部屋の隅に蹲まつてゐた一人の女を招いた。其の女の顏を薄暗い灯の下で見た時、公は思はず※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の死骸を取り落し、殆ど倒れようとした。被衣を以て頭を隱した其の女こそは、紛れもなく、公の寵姫の髢《かもじ》のために髮を奪はれた己氏《きし》の妻であつた。
「許せ」と嗄れた聲で公は言つた。「許せ。」
公は顫へる手で身に佩びた美玉をとり外して、己氏の前に差出した。
「これをやるから、どうか、見逃して呉れ。」
己氏は蕃刀の鞘を拂つて近附きながら、ニヤリと笑つた。
「お前を殺せば、璧《たま》が何處かへ消えるとでもいふのかね?」
これが衞侯|※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《くわいぐわい》の最期であつた。
底本:「中島敦全集第一卷」筑摩書房
1976(昭和51)年3月15日初版第1刷発行
初出:「政界往来」
1942(昭和17)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:米田進
校正:土屋隆
2008年12月1日作成
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