子が妾を殺します。太子が妾を殺します」と繰返すばかりである。靈公は兵を召して太子を討たせようとする。其の時分には太子も刺客も疾《と》うに都を遠く逃げ出してゐた。
宋に奔り、續いて晉に逃れた太子|※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《くわいぐわい》は、人毎に語つて言つた。淫婦刺殺といふ折角の義擧も臆病な莫迦者の裏切によつて失敗したと。之も矢張衞から出奔した戲陽速が此の言葉を傳へ聞いて、斯う酬いた。とんでもない。こちらの方こそ、すんでの事に太子に裏切られる所だつたのだ。太子は私を脅して、自分の義母を殺させようとした。承知しなければ屹度私が殺されたに違ひないし、もし夫人を巧く殺せたら、今度は必ず其の罪をなすりつけられるに決つてゐる。私が太子の言を承諾して、しかも實行しなかつたのは、深謀遠慮の結果なのだと。
晉では當時|范《はん》氏|中行《ちうかう》氏の亂で手を燒いてゐた。齊・衞の諸國が叛亂者の尻押をするので、容易に埒があかないのである。
晉に入つた衞の太子は、此の國の大黒柱たる趙簡子《てうかんし》の許に身を寄せた。趙氏が頗る厚遇したのは、此の太子を擁立することによつて、反晉派たる現在の衞侯に楯突かうとしたに外ならぬ。
厚遇とはいつても、故國にゐた頃の身分とは違ふ。平野の打續く衞の風景とは凡そ事變《ことかは》つた・山勝ちの絳《かう》の都に、侘しい三年の月日を送つた後、太子は遙かに父衞公の訃を聞いた。噂によれば、太子のゐない衞國では、已むを得ず※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《くわいぐわい》の子・輒《てふ》を立てゝ、位に即かせたといふ。國を出奔する時後に殘して來た男の兒である。當然自分の異母弟の一人が選ばれるものと考へてゐた※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《くわいぐわい》は、一寸妙な氣がした。あの子供が衞侯だと? 三年前のあどけなさ[#「あどけなさ」に傍点]を考へると、急に可笑しくなつて來た。直ぐにも故國に歸つて自分が衞侯となるのに、何の造作も無いやうに思はれる。
亡命太子は趙簡子の軍に擁せられて意氣揚々と黄河を渡つた。愈※[#二の字点、1−2−22]衞の地である。戚《せき》の地迄來ると、しかし、
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