位置を保証させ、さて渾良夫の如き奸臣はたちどころに誅《ちゅう》すべしと迫る。あの男には三度迄死罪を免ずる約束がしてあるのだと公が言う。それでは、と太子は父を威すように念を押す。四度目の罪がある場合には間違いなく誅戮《ちゅうりく》なさるでしょうな。すっかり気を呑まれた荘公は唯々《いい》として「諾」と答えるほかは無い。
翌年の春、荘公は郊外の遊覧地|籍圃《せきほ》に一亭を設け、墻塀《しょうへい》、器具、緞帳《どんちょう》の類を凡《すべ》て虎の模様一式で飾った。落成式の当日、公は華やかな宴を開き、衛国の名流は綺羅《きら》を飾って悉《ことごと》く此の地に会した。渾良夫《こんりょうふ》はもともと小姓上りとて派手好みの伊達男である。此の日彼は紫衣に狐裘《こきゅう》を重ね、牡馬二頭立の豪奢な車を駆って宴に赴いた。自由な無礼講のこととて、別に剣を外《はず》しもせずに食卓に就き、食事半ばにして暑くなったので、裘を脱いだ。此の態を見た太子は、いきなり良夫に躍りかかり、胸倉を掴んで引摺り出すと、白刃を其の鼻先に突きつけて詰《なじ》った。君寵を恃《たの》んで無礼を働くにも程があるぞ。君に代って此の場で汝を誅するのだ。
腕力に自信の無い良夫は強いて抵抗もせず、荘公に向って哀願の視線を送りながら、叫ぶ。嘗て御主君は死罪三件まで之を免ぜんと我に約し給うた。されば、仮令《たとい》今我に罪ありとするも、太子は刃《やいば》を加えることが出来ぬ筈だ。
三件とや? 然らば汝の罪を数えよう。汝今日、国君の服たる紫衣をまとう。罪一つ。天子|直参《じきさん》の上卿用たる衷甸両牡《ちゅうじょうりょうぼ》の車に乗る。罪二つ。君の前にして裘を脱ぎ、剣を釈《と》かずして食う。罪三つ。
それだけで丁度三件。太子は未だ我を殺すことは出来ぬ、と、必死にもがきながら良夫が叫ぶ。
いや、まだある。忘れるなよ。先夜、汝は主君に何を言上したか? 君侯父子を離間しようとする佞臣奴《ねいしんめ》!
良夫の顔色がさっ[#「さっ」に傍点]と紙の様に白くなる。
之で汝の罪は四つだ。という言葉も終らぬ中に、良夫の頸はがっくり[#「がっくり」に傍点]前に落ち、黒地に金で猛虎を刺繍した大緞帳に鮮血がさっと迸《ほとばし》る。
荘公は真蒼な顔をした儘、黙って息子のすることを見ていた。
晋の趙簡子《ちょうかんし》の所から荘公に使が来た。衛侯亡命の砌《みぎり》、及ばず乍《なが》ら御援け申した所、帰国後一向に御挨拶が無い。御自身に差支えがあるなら、せめて太子なりと遣わされて、晋侯に一応の御挨拶がありたい、という口上である。かなり威猛高な此の文言に、荘公は又しても己の過去の惨めさを思出し、少からず自尊心を害した。国内に未だ紛争《ごたごた》が絶えぬ故、今暫く猶予され度い、と、取敢えず使を以て言わせたが、其の使者と入れ違いに衛の太子からの密使が晋に届いた。父衛侯の返辞は単なる遁辞《とんじ》で、実は、以前厄介になった晋国が煙たさ故の・故意の延引なのだから、欺されぬように、との使である。一日も早く父に代り度いが為の策謀と明らかに知れ、趙簡子も流石《さすが》に些《いささ》か不快だったが、一方衛侯の忘恩も又必ず懲さねばならぬと考えた。
其の年の秋の或夜、荘公は妙な夢を見た。
荒涼たる曠野に、檐《のき》も傾いた古い楼台が一つ聳《そび》え、そこへ一人の男が上って、髪を振り乱して叫んでいる。「見えるわ。見えるわ。瓜、一面の瓜だ。」見覚えのあるような所と思ったら其処は古《いにしえ》の昆吾氏《こんごし》の墟《あと》で、成程到る処累々たる瓜ばかりである。小さき瓜を此の大きさに育て上げたのは誰だ? 惨めな亡命者を時めく衛侯に迄守り育てたのは誰だ? と楼上で狂人の如く地団駄を踏んで喚いている彼の男の声にも、どうやら聞き憶えがある。おやと思って聞き耳を立てると、今度は莫迦にはっきり[#「はっきり」に傍点]聞えて来た。「俺は渾良夫《こんりょうふ》だ。俺に何の罪があるか! 俺に何の罪があるか!」
荘公は、びっしょり汗をかいて眼を覚した。いやな気持であった。不快さを追払おうと露台へ出て見る。遅い月が野の果に出た所であった。赤銅色に近い・紅く濁った月である。公は不吉なものを見たように眉を顰《しか》め、再び室に入って、気になるままに灯の下で自ら筮竹《ぜいちく》を取った。
翌朝、筮師を召して其の卦《け》を判ぜしめた。害無しと言う。公は欣び、賞として領邑《りょうゆう》を与えることにしたが、筮師は公の前を退くと直ぐに倉皇《そうこう》として国外に逃れた。現れた通りの卦を其の儘伝えれば不興を蒙ること必定故、一先ず偽って公の前をつくろい、さて、後に一散に逃亡したのである。公は改めて卜《ぼく》した。その卦兆の辞を見るに「魚の疲れ病み、赤尾を曳きて流に横たわり、水辺を迷うが如し。大国これを滅ぼし、将《まさ》に亡びんとす。城門と水門とを閉じ、乃《すなわ》ち後より踰《こ》えん」とある。大国とあるのが、晋であろうことだけは判るが、其の他の意味は判然しない。兎に角、衛侯の前途の暗いものであることだけは確かと思われた。
残年の短かさを覚悟させられた荘公は、晋国の圧迫と太子の専横《せんおう》とに対して確乎たる処置を講ずる代りに、暗い予言の実現する前に少しでも多くの快楽を貪ろうと只管《ひたすら》にあせるばかりである。大規模の工事が相継いで起され過激な労働が強制されて、工匠石匠等の怨嗟《えんさ》の声が巷《ちまた》に満ちた。一時忘れられていた闘※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]戯への耽溺も再び始まった。雌伏時代とは違って、今度こそ思い切り派手に此の娯しみに耽ることが出来る。金と権勢とに※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》かして国内国外から雄※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の優れたものが悉く集められた。殊に、魯《ろ》の一貴人から購め得た一羽の如き、羽毛は金の如く距《けづめ》は鉄の如く、高冠昂尾《こうかんこうび》、誠に稀に見る逸物である。後宮に立入らぬ日はあっても、衛侯が此の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の毛を立て翼を奮う状を見ない日は無かった。
一日、城楼から下の街々を眺めていると、一ヶ所甚だ雑然とした陋穢《ろうわい》な一劃が目に付いた。侍臣に問えば戎人の部落だという。戎人とは西方の化外《けがい》の民の血を引いた異種族である。眼障りだから取払えと荘公は命じ、都門の外十里の地に放逐させることにした。幼を負い老を曳き、家財道具を車に積んだ賤民共が陸続《りくぞく》と都門の外へ出て行く。役人に追立てられて慌て惑う状《さま》が、城楼の上からも一々見て取れる。追立てられる群集の中に一人、際立って髪の美しく豊かな女がいるのを、荘公は見付けた。直ぐに人を遣って其の女を呼ばせる。戎人|己氏《きし》なる者の妻であった。顔立は美しくなかったが、髪の見事さは誠に輝くばかりである。公は侍臣に命じて此の女の髪を根本《ねもと》から切取らせた。後宮の寵姫の一人の為にそれで以て髢《かもじ》を拵《こしら》えようというのだ。丸坊主にされて帰って来た妻を見ると、夫の己氏は直ぐに被衣《かずき》を妻にかずかせ、まだ城楼の上に立っている衛侯の姿を睨んだ。役人に笞《むち》打たれても、容易に其の場を立去ろうとしないのである。
冬、西方からの晋軍の侵入と呼応して、大夫・石圃《せきほ》なる者が兵を挙げ、衛の公宮を襲うた。衛侯の己を除こうとしているのを知り先手を打ったのである。一説には又、太子疾との共謀によるのだともいう。
荘公は城門を悉く閉じ、自ら城楼に登って叛軍に呼び掛け、和議の条件を種々提示したが石圃は頑として応じない。やむなく寡《すくな》い手兵を以て禦がせている中に夜に入った。
月の出ぬ間の暗さに乗じて逃れねばならぬ。諸公子・侍臣等の少数を従え、例の高冠昂尾の愛※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を自ら抱いて公は後門を踰《こ》える。慣れぬこととて足を踏み外して墜ち、したたか股を打ち脚を挫いた。手当をしている暇は無い。侍臣に扶《たす》けられつつ、真暗な曠野を急ぐ。兎にも角にも夜明迄に国境を越えて宋の地に入ろうとしたのである。大分歩いた頃、突然空がぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と仄《ほの》黄色く野の黒さから離れて浮上ったような感じがした。月が出たのである。何時かの夜夢に起されて公宮の露台から見たのとまるでそっくり[#「そっくり」に傍点]の赤銅色に濁った月である。いや[#「いや」に傍点]だなと荘公が思った途端、左右の叢《くさむら》から黒い人影がばらばらと立現れて、打って掛った。剽盗《ひょうとう》か、それとも追手か。考える暇もなく激しく闘わねばならなかった。諸公子も侍臣等も大方は討たれ、それでも公は唯独り草に匍《は》いつつ逃れた。立てなかったために却って見逃されたのでもあろう。
気が付いて見ると、公はまだ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]をしっかり抱いている。先程から鳴声一つ立てないのは、疾《と》うに死んで了っていたからである。それでも捨て去る気になれず、死んだ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を片手に、匍って行く。
原の一隅に、不思議と、人家らしいもののかたまった一郭が見えた。公は漸く其処迄辿り着き、気息|奄々《えんえん》たる様《さま》でとっつき[#「とっつき」に傍点]の一軒に匍い込む。扶け入れられ、差出された水を一杯飲み終った時、到頭来たな! という太い声がした。驚いて眼を上げると、此の家の主人らしい・赭《あか》ら顔の・前歯の大きく飛出た男がじっ[#「じっ」に傍点]と此方を見詰めている。一向に見憶えが無い。
「見憶えが無い? そうだろう。だが、此奴なら憶えているだろうな。」
男は、部屋の隅に蹲《うずく》まっていた一人の女を招いた。其の女の顔を薄暗い灯の下で見た時、公は思わず※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の死骸を取り落し、殆ど倒れようとした。被衣を以て頭を隠した其の女こそは、紛れもなく、公の寵姫の髢《かもじ》のために髪を奪われた己氏《きし》の妻であった。
「許せ」と嗄れた声で公は言った。「許せ。」
公は顫える手で身に佩《お》びた美玉をとり外して、己氏の前に差出した。
「これをやるから、どうか、見逃して呉れ。」
己氏は蕃刀の鞘《さや》を払って近附きながら、ニヤリと笑った。
「お前を殺せば、璧《たま》が何処かへ消えるとでもいうのかね?」
これが衛侯|※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《かいがい》の最期であった。
底本:「中島敦全集 2」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年3月24日初版発行
1999(平成11)年10月15日第5刷発行
初出:「政界往来」
1942(昭和17)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:小林繁雄
校正:多羅尾伴内
2003年7月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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