々しいものが前を過ぎたやうな氣がした。田舍の暗い田圃道から、土手の上を通つて行く明るい夜汽車の窓々を見送る時に似て、今迄すつかり忘れてゐた華やかな夢の一片が、遠い世界からやつて來てチラリと前を通り過ぎて行つたやうな氣がした。私がまだ學生の頃、當時は映畫館でなかつた帝劇に、毎年三月頃になると、ロシヤとイタリイから歌劇團が來演した。カルメンやリゴレットやラ・ボエームやボリス・ゴドノフなど、私は金錢《かね》の許す限り其等を見に行つた。明るい照明の中で、女優達の豐かな肩や白い腕に生毛が光り、金髮が搖れ、頬が紅潮し、肉感的な若々しい聲が快く顫へて、私を醉はせた。偶然目にした Opera といふ、たつた五字が、失はれた・遠い・華やかな世界のかぐはしい空氣をちら[#「ちら」に傍点]と匂はせ、しばし私を混亂させた。所要の文字を探すことも忘れて、私は Opera といふ字を見詰めたまゝ、ぼんやりしてゐた。
囘顧的になるのは身體が衰弱してゐるからだらうと人はいふ。自分もさうは思ふ。しかし何といつても、現在身を打込める仕事を(或ひは、生活を)有《も》つてゐないことが一番大きな原因に違ひない。
實際、近
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