つてゐる傍で、彼女の乳母が、まだ其の理由を知らないながらに、彼女を慰めてゐる。
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「人間の生活といふものは、苦しみで一杯でございます。その不幸には休みといふものがございません。しかし、若し人間のこの生活よりもつと快いものが假りにあるとしても、闇がそれを取圍み、我々の眼から隱して了つてゐます。それに此の地上の存在といふものは燦かしいやうに見えますので、私共は狂人のやうにそれに執着するのでございます。何故と申しまして、私共は他の生活を存じませんし、地下で行はれてゐることに就いては何も知る所がございませんから。」
[#ここで字下げ終わり]
 こんな言葉を思出しながら、周圍の墓々を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]すと、死者達の哀しい執着が――「願望《ねがひ》はあれど希望《のぞみ》なき」彼等の吐息が、幾百とも知れぬ墓處の隅々から、白い靄となつて立昇り、さうして立罩めてゐるやうに思はれる。

 ルクレティウスを竟《つひ》に開かないまゝに、私は腰を上げる。海の上の烟つた灰色の中から、汽笛がしきりに聞えてくる。傾斜した小徑を私はそろ/\下り始める。



底本:「中島敦全集第一卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年3月15日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※校正には、1993(平成5)年6月20日初版第18刷を用いました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年4月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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