四
今日も勤めのない日。火、水、木、と三日、休みが續くのである。昨夜は稍※[#二の字点、1−2−22]眠れた。發作への懸念(殆ど恐怖といつてもいゝ)も先づ無くなる。持藥の麻杏甘石湯《まきやうかんせきたう》の分量を少し増す位で濟みさうである。鈍い頭痛は依然去らない。午前中|嘔氣《はきけ》少々。
カメレオンは一昨日から蠅を十二三匹しか喰べてゐない。止り木から下りて、綿の上に蹲《うづくま》つてゐる。寒いのであらう。之では長くもつまいと思ふ。いよ/\仕方がなければ動物園へ持つて行くことにしよう。後肢のつけねの所に小さい黒褐色の傷痕がついてゐる。學校で床へ落ちた時に傷めたのだらうか。背中のギザ/\はハンド・バッグの口に使ふチャックに似てゐる。
今日も午前中ずつと小爬蟲類を前に、ぼんやり頬杖をついてゐた。少し眠い。前の晩に全然眠れなかつた日より、なまじ一・二時間眠れた次の日の方が眠いのである。うとうとしかけてハツと氣がついた瞬間、目の前のカメレオンの顏が、ルヰ・ジュウベエ扮する所の中世の生臭坊主に見えた。カメレオンと簑蟲《みのむし》との對話といふレヲパルディ風のものを書いて見度くなる。簑蟲の形而上學的疑惑、カメレオンの享樂家的逆説。……等々……。但し勿論本當に書きはしない。書くといふことは、どうも苦手だ。字を一つ一つ綴つてゐる時間のまどろつこしさ[#「まどろつこしさ」に傍点]。その間に、今浮かんだ思ひつきの大部分は消えてしまひ、頭を掠めた中の最もくだらない[#「くだらない」に傍点]殘滓《かす》が紙の上に殘るだけなのだ。
午後、不圖頁をくつた或る本の中に、自分の精神のあり方[#「あり方」に傍点]を此の上なく適切に説明してくれる表現を見つけた。
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――人間の分際といふものの不承認。そこから來る無氣力。拗ねた理想の郷愁。氣を惡くした自尊心。無限を垣間見《かいまみ》、夢みて、それと比較するために、自分をも事物をも本氣にしない……。自己の無力の感じ。周圍の事情を打破る力も、強ひる力も、按排する力も無く、事情が自分の欲するやうになつてゐない時には、手を出すまいとする。自分で一つの目的を定め、希望をもち、鬪つて行くといふ事は、不可能な・途方もない事のやうに思はれる。――
[#ここで字下げ終わり]
私は本を閉ぢた。之は恐ろしい本だ。何と明確に私を説明
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