もより多くあり得ることに思ひ込み、さうして、さういふ場合でも決して落膽せぬやうに自分を納得させてから、出掛けるのである。
 何事に就いても之と同樣で、竟《つひ》には、失望しないために、初めから希望を有《も》つまいと決心するやうになつた。落膽しないために初めから慾望をもたず、成功しないであらうとの豫見から、てんで努力をしようとせず、辱しめを受けたり氣まづい思ひをし度くないために人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなつて了つた。外へ向つて展かれた器關を凡て閉ぢ、まるで掘上げられた冬の球根類のやうにならうとした。それに觸れると、どのやうな外からの愛情も、途端に冷たい氷滴となつて凍りつくやうな・石とならうと私は思つた。

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我はもや石とならむず 石となりて つめたき海を沈み行かばや
氷雨降り狐火燃えむ 冬の夜に われ石となる黒き小石に
眼《め》瞑《と》づれば 氷の上を風が吹く われ石となりて轉《まろ》びて行くを
腐れたる魚のまなこは 光なし 石となる日を待ちて吾がゐる
たまきはる いのち寂しく見つめけり つめたき星の上に獨りゐて
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今迄和歌を作つたことのない私が、こんな妙なものを書散らしては、自ら球根のうた[#「うた」に傍点]と哂ふのである。

 金魚鉢の中の金魚。自分の位置を知り、自己及び自己の世界の下らなさ・狹さを知悉してゐる絶望的な金魚。
 絶望しながらも、自己及び狹い自己の世界を愛せずにはゐられない金魚。

 幼い頃、私は、世界は自分を除く外みんな狐が化けてゐるのではないかと疑つたことがある。父も母も含めて、世界凡てが自分を欺すために出來てゐるのではないかと。そして何時かは何かの途端に此の魔術の解かれる瞬間が來るのではないかと。
 今でもさう考へられないことはない。それを常にさうは考へさせないものが、つまり常識とか慣習とかいふものだらう。が、其等も私のやうな世間から引込んでゐる者には、もはや、さう強い力をもつてゐない。照明の變化と共に舞臺の感じがまるで一變するやうに、世界は、ほんのスヰッチの一ひねりで、さういふ幸福な(?)世界ともなり得るし、又同じ一ひねりで、荒冷たる救ひのないものともなる。私にとつて其のスヰッチが往々にして、呼吸困難の有無であり
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