昨夜就寢する頃から少し胸苦しかつたが、夜半果して例の發作に襲はれて、起上る。アドレナリン一本をうち、朝迄床上に坐つてゐる。呼吸困難は稍※[#二の字点、1−2−22]をさまつたが、頭痛甚だし。朝になつて未だ不安なので、エフェドリン八錠服用。朝食は攝らず。息苦しきため横臥する能はず。終日椅子に掛け机に凭り、カメレオンの籠を前に、頬杖をついて眺める。
 カメレオンも元氣なし。鳥の止り木にとまり、小さな眼孔からぢつと[#「ぢつと」に傍点]こちらを見てゐる。動かず。瞑想者の風あり。尾の捲き方が面白い。木をつかんでゐるゆび[#「ゆび」に傍点]は、前三本、後二本。體色は餘り變化しないやうだ。全く異つた環境に連れ込まれたために、之に應ずる色素の準備がないのか?
 眺めてゐるうちに、ものが段々と、sub specie chameleonis に見えて來さうだ。人間としては常識として通つてゐることが、一つ一つ不可思議な疑はしいことに思はれて來る。頭痛は依然止まず。おほむね鈍痛だが、時にヅキヅキと劇しくなる。

 頭痛の合間にきれ/″\にうかぶ斷想。
 俺といふものは、俺が考へてゐる程、俺ではない。俺の代りに習慣や環境やが行動してゐるのだ。之に、遺傳とか、人類といふ生物の一般的習性とかいふことを考へると、俺といふ特殊なものはなくなつて了ひさうだ。之は云ふ迄もないことなのだが、しかし普通沒我的に行動する場合、こんな事を意識してゐる者は無い。所が私のやうに、全力を傾注する仕事を有《も》たない人間には、この事が何時も意識されて仕方がない。しまひには何が何やら解らなくなつて來る。

 俺といふものは、俺を組立てゝゐる物質的な要素(諸道具立)と、それをあやつるあるもの[#「あるもの」に傍点]とで出來上つてゐる器械人形のやうに考へられて仕方がない。この間、欠伸をしかけて、ふと、この動作も、俺のあやつり[#「あやつり」に傍点]手の操作のやうに感じ、ギヨツとして伸ばしかけた手を下《おろ》した。
 一月《ひとつき》程前、自分の體内の諸器關の一つ一つに就いて、(身體模型圖や動物解剖の時のことなどを思ひ浮かべながら)その所在のあたりを押して見ては、其の大きさ、形、色、濕り工合、柔かさ、などを、目をつぶつて想像して見た。以前だつて斯ういふ經驗が無いわけではなかつたが、それは併し、いはゞ、内臟一般、胃一般、腸一
前へ 次へ
全22ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング