行に扶《たす》けられて、吹雪の中を下山せり、胸突《むねつき》を過ぎし頃|日《ひ》は既に西山《せいざん》に傾きしかば寒気一層甚しく、性来|壮健《そうけん》なりとはいえ、従来身心を労し、特に病体を氷点下二十余度に及べる寒風の中に曝《さら》せしことなれば、如何《いか》でかこれに堪《た》ゆるを得んや、最早《もはや》寒風に抵抗して呼吸するの力なく、特に浮腫せる胸部を剛力の背に圧迫せし故、呼吸ますます苦しく、空《くう》を攫《つか》みて煩悶《はんもん》するに至れり、今は刻一刻、気力次第に弱《よ》わり、両眼自ら見えずなりたれば我今これまでと思いて、自ら眼《まなこ》を閉《と》じなばあるいはこれ限《かぎり》なるべし、力の続かんまではと心励まし、歯《は》がみをなし、一生懸命吹雪に向いて見張《みは》りしため、両眼殆んど凍傷に罹《かか》りたるか、色朱の如《ごと》く、また足は氷雪の上を引摺《ひきず》りしため、全く凍傷に罹る等実に散々の体《てい》に打ち悩まされ、ここに気力全く尽《つ》き果《は》てて、終に何時《いつ》となく、人事不省に陥《おちい》りたり、かくの如き際に、普通起るべき感情は、予も強《あなが》ち世捨人ならねば、大は世界及び国家の事より、小は一家及び我が子の事までもむらむらと思い起さざるにはあらねども、男子の本領として屑《いさぎ》よく放棄したり。
既に夜半過ぎなりしかと覚えし頃、漸く人心地《ひとここち》に立ち還《かえ》りぬ、聞けば予が苦しさの余りに、仙台萩《せんだいはぎ》の殿様《とのさま》が御膳《ごぜん》を恋しく思いしよりも、なお待ち焦《こが》れし八合目の石室《せきしつ》の炉辺に舁《か》き据《す》えられ、一行は種々の手段を施こし、夜を徹して予が病躯《びょうく》を暖《あた》ためつつある真最中なりしなり、さて予は我に還るや、俄《にわ》かにまた呼吸の逼迫《ひっぱく》、凍傷《とうしょう》の難《なや》み、眼球の激痛《げきつう》等を覚えたり、勿論《もちろん》いまだ眼《まなこ》を開くこと能《あた》わざるのみならず、痛みに堪えかねて、眼球を転ずることさえ叶わず、実に四苦八苦の責《せ》めに遇《あ》いしも、もと捨てたりし命を図らずも拾いしに、予に於て毫《ごう》も憂うるに足らず。ただただ以上述ぶる所の場合に、終始一行の骨折《ほねおり》心配は、如何ばかりなりしぞ、実に予が禿筆《とくひつ》の書き尽し得べき所に非ず、願《ねがわ》くは有志の士は自ら寒中登岳してその労を察せられんことを。
予は実にこの経験によりて、造化の執拗《しつよう》にしてますます気象の畏《おそ》るべきものなることを知ると共に、山頂と山下《さんか》との総ての気候は、いわゆる霄壌《しょうじょう》の差異あることを認め得たり、下山の途中既に五合目辺に下れば、胸部自ら透《す》きて、心神爽快を覚え、浮腫知らず識《し》らず、減退して殆んど常体に復し、全く山麓に達するに及びては、いわゆる形容|枯槁《ここう》の人となり、余人は寒気耐え難しといい合えるにもかかわらず、予らはさほどに寒気を感ぜず、また今まで食気更に振わざりしに引かえ忽《たちま》ち食慾を奮起し、滞岳中に比すれば無論多食せしといえども、更に胃を傷《そこな》うことなかりし、これによりて見るに、滞岳中食気振わざりしは、強《あなが》ち直接に胃の衰弱せしためのみに非《あら》ずして、山頂と寒気さほど差違なき五合目辺に於て、已に爽快を覚ゆるを以て考うれば、その身体に異常を感ずるものは、ただ気圧の点あるのみ、勿論運動または沐浴《もくよく》の不如意《ふにょい》等も、大に媒助《ばいじょ》する所ありしには相違なきも主として気圧薄弱の然《しか》らしむる所ならんか、暫《しばら》く疑《うたがい》を存す、もし予にして羸弱《るいじゃく》にして、体育の素養なからんには、人事不省に陥《おちい》りたる後ち、再び起つこと能わざりしならんにと、下山後医師の言を耳にしたることもありたれども、要するに予が幸に今日あるを得たるは、偏《ひと》えに有志者の特別の援助を与えられたるに依《よ》る。
予はかくの如く、しばしば思わざる逆境に臨《のぞ》みし代りに、再挙の計画に就きては、経験を得たること鮮少ならず。特に先ず須要《しゅよう》にして急務となすものは、観測所改造の挙に在《あ》り、これをして完全ならしめざれば常に天候に妨げられ、到底力を目的の業務に専《もっぱ》らにすること能わず、随て満足なる観測の結果を得んこと望むべからず、故に完全なる家屋改造のことは、実にこの事業の根底なりとす、然るに先年は諸事完備を欠くこと多かりしにもかかわらず、寒中殆んどその半ば滞在し得たるのみならず、図らずも婦女子の弱体すらなおこれに堪《た》え得たる有様なるを以て、今《いま》もし前途の施設を完備せんには、常住観測の決して至難の業にあらざるは
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