のできた、誰も顧みない、楽しい地方であった。」
 父は、無政府主義的、共産主義的な理論の一古典として知られる例の『社会的正義に関する研究』の著者として、マルサスの人口論を駁し、無政府社会の理想を熱切に説いたが、その客間にしばしば現われて深い影響を受けた若者の一人に、後にバイロン、キーツとともに近代イギリスの三大詩人と謳われるにいたったパーシー・ビッシ・シェリーがあった。シェリーははじめ、オクスフォード大学に席をおいたが、『無神論の必要』(一八一一年)を書いて学校から追放され、革命詩人としての天才的光芒をますます鮮かに示しつつあった。マリーは、このシェリーと親しくなり、ついに二人でスイスへの旅に出かけ、シェリーの最初の妻ハリエットが自殺したので、正式に結婚し、イタリアへ移住した。ミラノを振り出しに、ヴェネチア、ナポリ、ローマ、リヴォルノ、フィレンツェ等をめぐり、一八二九年にピサに定住することにした。三年後の一八二二年に、湖水で舟が覆ってシェリーが溺死したことは、ここで言うまでもない。あとに残されたマリーの哀しみは察するに余りがある。
 マリーは一八五一年まで生き、そのあいだに、イタリア中
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