いる、だから、その殺害者の逮捕に全力をあげていただきたい、と話した。刑事裁判官である知事は、注意ぶかく親切に私の話に耳をかたむけた、――「ええ、だいじょうぶですよ。骨身を惜しまずにその悪者を見つけますから。」
「ありがとうございます。」と私は言った、「では、証言しますから、お聴き取りください。これは変った話ですから、どれほどへんなことでも、それを信じさせるだけの力のある何かが実際にないと、ほんとうにはなさらないのではないかとおもって心配です。この話は、前後左右の脈絡がはっきりしていて、夢とまちがえられたりすることはありませんし、私が嘘を申しあげるいわれもありません。」知事にこう話しかけたとき、私の態度は印象的であったが、おちついていた。私は心のなかで、あの殺戮者を死ぬまで追跡する決心を固めていたので、この目的は私の苦悩を和らげ、しばらくのあいだ私に生きがいを感じさせた。私はそこで手短かに、自分の経歴を述べたが、しっかりと精確に、日附けなどにもいささかの狂いもなく、また筋みちをそれて罵倒したり絶叫したりすることもなかった。
 知事は、はじめのうちは、まるきりほんとうにしないように見えたが、話をつづけるうちに、だんだん注意し、関心をもつようになって、ときには恐怖に身慄いし、またときには、少しも疑いをさしはさまぬ驚きがその顔にまざまざと描かれるのを、私は見た。
 話が終ってから私は言った、「僕が告発するのは、そいつなのです。そいつを逮捕して処罰するために、ひとつ全力を尽してくださるようにお願いします。それは知事としてのあなたの義務ですし、人間としてのあなたのお気もちも、このばあい、そういう職責をはたすことをお厭いにならないだろうと、私は思ってもいますし、またおもいたいのです。」
 このことばに、聴いていた知事の顔色が、かなり変った。知事は、精霊や超自然的事件の話を聞いた時のように、半信半疑で話を聞いていたのだが、その結果として公的に行動することを求められると、頭から信じられないという態度にもどった。けれども知事は、穏かに答えるのであった、「あなたが追跡するばあいには、喜んでどんな援助でもしますが、お話しになったその生きものは、わたしの努力などはものともしない力をもっているようですね。氷の海をよこぎったり、人間のとても入りこめない洞窟や獣の巣窟に住むことのできる動物を、誰が追いかけられますか。そのうえ、あの犯罪がおこなわれてから何箇月も経っており、そいつがどんな場所を歩いているのか、今どの土地に住んでいるのか、誰も推測できませんからね。」
「きっと僕の住んでいる所の近くをうろついています。また、たしかにアルプスの山中に逃げこんでいるとすれば、玲羊《カモシカ》のように狩り出して猛獣として殺すのですよ。しかし、僕には、あなたのお考えがわかります。僕の話を信じてはおられないのだ。それで、僕の敵を追跡して当然の刑罰に処するつもりがないのだ。」
 こう語ったとき、私の眼には怒気がちらついた。すると知事は、それに気がついて言った、「それはまちがっている。わたしは努力しますよ。わたしの力でその怪物をつかまえたら、きっとそいつの犯罪に相当した処罰をします。ただ、お話しになったそいつの性質から見て、それができそうもないと思うのですよ。そんなわけであらゆる適当な手段を講じますが、まあ、望みのないことだと思っていただかなくてはなりませんね。」
「そんなはずはありませんよ。しかし、僕がなんと言ったって、やくにたたないでしょうね。僕の復讐などは、あなたには何も重大なことではありませんからね。だけど、自分で悪いことだとは認めても、白状しますが、それが僕の魂の渇望、そのたった一つの情熱なのです。僕が世の中に追い放った殺戮者がまだ生きていると思うと、僕の怒りは言語に絶するのだ。あなたは僕の正当な要求を拒みましたが、僕の取る手段はたった一つしかありません。生きるか死ぬかで、あいつをやっつけることに身を捧げるのです。」
 こういいながら私は、興奮のあまりぶるぶる慄えた。そこには、狂乱の風と、どうやら、昔の殉教者たちがもっていたといわれるあの尊大な荒々しさがあった。献身や英雄主義の観念とはまるで違った観念を心に抱いているジュネーヴの知事には、こういう心の高揚は、よほど気ちがいじみて見えるのであった。子守りが子どもをあやすように知事はしきりに私を宥めようとし、話を前にもどして、あなたが言ったようなことは錯乱状態の結果だ、と言うのであった。
「なんだと、」と私は叫んだ、「あなたは賢いのを自慢にしているが、なんて無知なのだ! おやめなさい。言っていることがどんなことかこぞんじないのだ。」
 私は、腹立ちまぎれにいきなりその家を跳び出し、自分の家に帰ってほかに取るべき行動を考えた
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