ためにだんだんおちつきを取りもどした。じっさい、その時が近づくにつれて、あの威嚇がますます錯覚のように見え、私の平和を乱すほどのことでないような気がしたし、また一方、挙式の日と定められた時がだんだん近づき、それを妨げる出来事が起ろうなとど夢にも思わないで語られているのを聞くと、結婚したら得られるだろうと望んでいた幸福が、ますます確実なものに見えるのであった。
 エリザベートは、幸福なようすだった。私の平静なふるまいが、心を安めるのにたいへんやくだったのだ。しかし、私の願望と宿命が果されることになったにその日は、エリザベートも憂欝で、禍の予感にひたされ、またおそらくは、私がそのつぎの日にうちあけるた約束した怖ろしい秘密のことを考えてもいた。そのあいだも、父は大喜びで、準備のどさくさにまぎれて、姪の憂鬱を花嫁のはにかみぐらいにしか考えなかった。
 式か済んだあとで、父のところにおおぜいの人々が集まったが、エリザベートと私は、水路で旅に出かけ、その夜はエヴィアンに泊り、翌日はまた旅をつづける、ということになった。天気がよく、風は追い風で、みんなが笑顔で私たちの蜜月の舟出を見送ってくれた。
 これは、私の人生のうちの幸福感を味わった最後の瞬間であった。私たちは急速に進んでいった。太陽は暑かったが、天蓋のようなもので日よけをして、景色の美しさを楽しみ、ときには湖の一方の端を進んで、そこでモン・サレーヴや、モンタレーグルの気もちのよい岸を眺め、遠くにあらゆる山の上にぬきんでた美しいモン・ブラン、それと競っても追いつけない雪の山々の集まりなどを眺めた。また、ときには、反対の岸に沿うて、偉大なジュラ山系を眺めたが、それは故国を去ろうという野心に対する暗黒面や、その故国を奴隷にしたがっている侵入者に対するほとんど越えがたい障壁を、突きつけているのであった。
 私はエリザベートの手を取った。「悲しそうにしているね。僕が悩んできたこと、まだそれに耐えていくことがわかったら、すくなくともこの一日だけは、絶望から逃れて安静にしておいてやろうと努力してくれそうなものなのにね。」
「幸福になってね、ヴィクトル、」と、エリザベートは叫んだ、「あなたを苦しめるものは何もないとおもうわ。私の顔がいきいきとした喜びに染まっていなくても、私の心は満足しているのよ。私たちに向って開かれた前途にあまり頼ってはいけないと、何かささやくものもあるけど、私はそんな、縁起でもない声には耳を傾けませんわ、ごらんなさいな、私たちの船はこんなに早く進んでいるのよ。それに、モン・ブランの円屋根を蔽い隠したり聳え立たしたりする雲が、この美しい眺めをいっそう引き立せていますのね。また、澄んだ水のなかで泳いでいるたくさんの魚もごらんなさいな。底の小石が一つ一つ見わけられるくらいよ。なんてすばらしいでしょう! 自然がみんな幸福に晴ればれとして見えますわ!」
 エリザベートはこんなふうに、憂欝なことを考える自分と私の心を、なんとかしてそらそうとした。しかし、その気分が動揺していて、ちょっとのあいだは眼を輝かしてよろこんだが、それがたえず困惑と空想に代っていった。
 太陽は沈みかけた。私たちはドランス河を過ぎ、小山の深い割れ目やもっと低い山の谷あいを通っている水路を眺めた。アルプス山系はこのあたりでは湖に近く迫っていて、私たちはその東の境になっている山々の円形劇場に近づいた。そのまわりにある森や、そのそばにさしかかった山また山のつらなりの下に、エヴィアンの尖塔が輝いていた。
 それまでたいへんな速さで私たちを吹き送っていた風が、日没には止んで微風になった。そのそよそよとした風は、水面にさざなみを起すぐらいのもので、海岸に近づくにつれて木々のあいだをこころよくそよがせ、花と乾草のじつに気もちのいい香りを運んでくるのだった。上陸するとき、太陽が水平線の下に沈んだ。私は、岸に着くと、まもなく自分を捉えて永久にまといつく心労や不安が甦ってくるのを感じた。


     23[#「23」は縦中横] 最愛の者の死


 上陸したのは八時ごろであった。私たちはしばらく、ひとときの光を楽しんで湖畔を歩き、それから宿屋に入って、暗くてぼんやりしてはいるがまだ黒い輪郭を見せている水や森や山々の美しい景色を眺めた。
 雨へ落ちていた風が、こんどは西から激しく吹き起った。月は天心に達して傾きはじめたが、雲は禿鷹の飛ぶより速くそれをかすめて光をかげらせ、湖はあわただしい空模様を映して、起りはじめたおやみない浪のためにますます騒々しくなった。と、とつぜん、沛然として雨が降りだした。
 私はおちついていたが、夜になって物の形がぼやけはじめるや否や、心に数限りない恐れが起ってきた。拳銃をふところに隠して右手で握りしめながら、私は
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