男は、すぐまた現われたが、手に何か道具を持って母家の裏の畠をよこぎって行った。娘のほうも忙しく、家に入ったり庭に出たりしていた。
「わたしの住まいをよく調べてみると、以前には母家の窓の一つがその一部分を占めていたが、それが板でふさいであるのがわかった。その板の一つにごく小さなほとんど気のつかない裂け目があって、そこに眼をあてるとどうにか中が見透せた。この隙間から小さな部屋が眼に映った。それは、白く塗られてあってきれいだったが、家具らしいものも何ひとつなかった。炉の近くの片隅には、一人の老人が腰かけていて、悲歎にくれたような様子をして手で頭を支えていた。若い娘は家のなかをせっせとかたずけていたが、まもなくひきだしから何やら手を使ってするものを取り出して、老人のそばに膝を下ろすと、老人は楽器を取りあげてそれを弾き、鶫や夜鶯の声よりも甘美な音を出しはじめた。それは、今まで美しいものを見たことのない哀れな出来そこないのわたしが見てさえ、美しい光景だった! 年とったこの百姓の銀髪と慈悲ぶかい顔つきが、わたしに尊敬の念を起させ、娘のやさしいものごしがわたしの愛情を誘った。老人が甘美な哀しみの曲を奏でると、愛らしい娘の眼から涙が流れたのが見えたが、耳に聞えるような声を出して娘がすすり泣くまで、老人はそれに気づかなかった。それから老人が何か喋ると、娘は仕事をやめて、老人の足もとにひざまずいた。老人は娘を立たせ、親切に愛情をこめてにっこり笑ったので、わたしは、特殊な、圧倒するような性質の感情を意識した。それは、飢えからも塞さからも、また暖かさからも食べものからも、今までにかつて味わったことのないような、苦しさと楽しさの入り混ったもので、その感動に堪えられなくなって、わたしは窓から離れた。
「そのあとですぐ、若い男が薪をどっさり肩にかついで戻ってきた。娘はそれを戸口に迎え、手を貸してその荷を下ろさせ、その燃料を少しばかり家のなかに持って入って炉にさし込んだ。それから娘と若い男は、家の片隅に行き、男が大きなパンとチーズを出してみせた。娘は喜んだ様子で、菜園から野菜類を少し取って来てそれを水につけ、火にかけた。そのあとでさっきの仕事を続けたが、若い男は菜園に入り、せっせと土を掘り起して根菜を抜いているらしかった。こうして一時間ほどその仕事をやったあとで、二人はいっしょに家に入った。
「老人はそのあいだ、もの思いに沈んでいたが、二人の姿を見ると、もっと元気な様子を見せ、みんなで食事にかかった。食事はたちまちのうちにすんでしまった。娘は家のなかをせっせと取りかたずけ、老人は若者の腕によりかかって、家の前の陽のあたるところを三、四分歩きまわった。この二人のすぐれた人間の対照にまさる美しいものはあるはずがなかった。一人は、年老いて、銀髪の、慈愛に輝く顔をしていたし、若者のほうはすらりとした優柔な姿で、顔立ちもじつに美しい均斉を保っていたが、ただその眼と態度は、極度の憂愁と意気沮喪を表わしていた。老人は家に戻り、若者は、朝使っていたものと違う道具をもって畠をよこぎって行った。
「じき、夜になったが、この百姓家の人たちが細長い蝋燭を使って光を延長する手段をこころえているのを知って、わたしはひどく驚嘆した。そして、陽が沈んでも、わが隣人たちを見守ることで味わった歓びが終りにならないことがわかって、嬉しかった。その晩、若い娘と男は、私にはなんのことかわからないさまざまな仕事に精を出し、老人は楽器をまた取りあげて、今朝わたしをひきつけたあのたまらなくよい音を出した。老人がそれを終るとすぐ、今度は若者が、老人の楽器の和音にも小鳥の歌にも似ない単調な音を、弾かずに出しはじめた。あとになってからそれは、大きな声で本を読んだのだということがわかったが、そのときにはまだ、ことばや文字の学問のことを何も知らなかったのだ。
「三人はしばらくこういうことをやったあとで、燈を消して引っ込んだが、わたしの推察では、それは休むためであった。


     12[#「12」は縦中横] フェリクスの家族


「藁の上に寝たが眠れなかったので、その日に起ったことを考えてみた。わたしを主として打ったのはこの人たちのやさしい態度であって、そのなかに加わりたいとおもったが、それもできかねた。前の晩に野蛮な村人から受けた仕打ちをあまりによくおぼえているので、これからさきどういう行為を正しいと考えてするにしても、とにかく今のところ努力しようと決心した。
「家の人たちは、翌朝、日の出前に起きた。娘が家のなかを取りかたずけてから食事のしたくをし、最初の食事が終ってから若い男が出ていった。
「この日は前の日と同じような日課で過ぎ去った。若い男はたえず外で仕事をし、娘は中でさまざまなほねのおれる仕事をした。老人は
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