もの仕事をかたずけたあとで、アラビアの婦人は、老人のすぐ前に腰かけて、ギターを取りあげ、心も溶ろけるほど美しい曲をいくつか弾いたが、それを聞くと、わたしの眼から悲しみと歓びの涙が同時にこぼれた。この人が歌うと、その声が森の夜鶯のように、あるいは溢れ高まり、あるいは絶えだえとなって、豊かな抑揚で流れ出した。
「客人が歌い終ると、ギターをアガータにわたしたが、アガータははじめそれを辞退した。アガータは単純な曲を弾き、美しい声調でそれに合せたか、客人の珍らしい歌とは違っていた。老人はほれぼれとして聞いていたらしく、何か喋ると、それをアガータがサフィーにほねおって説明してやったが、これは、あなたの音楽のおかげでたいへん楽しい思いをしたということを、表わそうとしているらしかった。
「それからというものは、家の人たちの顔に悲しみに代って喜びが浮んだことだけが変ったほかは、毎日毎日が、前と同じく平和に過ぎていった。サフィーはいつも楽しく幸福だった。サフィーとわたしは、たちまちのうちに単語をいろいろおぼえこみ、二箇月も経つと、わたしは家の人たちの話すことばがたいていわかるようになってきた。
「そのあいだに、黒い地面は草に蔽われ、緑の堤には、数えきれぬ花々が色も香も美しく咲きみだれ、星は月夜の森の梢に蒼白く輝いた。太陽はますます暖かくなり、夜は晴れて爽かになった。わたしの夜の散歩は、日の入りが遅く日の出が早くなったために、ずいぶん短かくなったが、わたしはこのうえもなく楽しかった。というのは、最初わたしが入りこんだ村でのようなひどい目に会うのは、もう懲り懲りだったからだ。
「ことばをもっと速く習得するために、日中は周到な注意を払って過ごしたので、わたしが、アラビアの婦人よりもっと速く上達したことを誇っていいかもしれない。アラビアの婦人はなかなか解らず、めちゃくちゃな語調で話をしたが、わたしのほうは、話に出てくるほとんどすべてのことばを解し、また、それをまねることもできた。
「話が上達するかたわら、客の婦人に教えられる文字の知識までわたしは学んだ。すると、そのために、驚異と喜びの広い分野がわたしの前に開けてきた。
「フェリクスがサフィーに教えた書物は、ヴォルネーの『諸帝国の没落』であった。それを読むとき、フェリクスがあまりこまかい説明をしなかったとしたら、わたしにはこの書物の内容がわから
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