大学入学資格者(〔Bachelier e`s lettres〕)となり、一八五三年、理科大学入学資格者(〔Bachelier e`s sciences〕)となり、砲工学校(Ecole Polytechnique)の入学試験を受けたが、失敗した。この頃彼は微積分学や理論力学を勉強していたが、それのみでなく、クールノーの「富の理論の数学的原理に関する研究」(〔Recherches sur les principes mathe'matiques de la the'orie des richesses. 1838.〕)をも初めて読んだという(五)[#「(五)」は行右小書き]。一八五四年、鉱山学校(Ecole des Mines)に入学したが、まもなく退学して、文学などに熱中した。
 一八五八年、レオンは小さな小説 Francis Sauveur を公にしている。しかし父は彼に経済学の勉強を熱心にすすめた。レオンが経済学者として立つに至るべき動機はここに発すると、彼自らいっている。「私の全生涯の最も決定的な時は、一八五八年の夏のある美しい夜であった。その夜 Gave de Pau 河の河辺を散歩していたとき、父は、一九世紀中になさるべき二つの大なる仕事――歴史を書き上げることと、社会科学を建設すべきこと――が残っていることを力説した。これらの二つの仕事のうちの第一については、ルナン(Renan)が充分に父を満足せしめるであろうことを、父は知らなかった。第二の仕事は、父が終生念願していた所であり、この仕事に特に父は感激をもっていた。父は、私がこの仕事を継ぐべきであると、力強くいっていた。Les Roseaux という農場の入口まで来たとき、私は、文学や文芸批評を放擲して、父の仕事を承《う》け継ぐことに専心しようと、父に堅く誓った(六)[#「(六)」は行右小書き]。」
 一八五九年に、レオンは Journal des Economistes の記者となり、一八六〇年に、Presse の記者となった。まもなくこれをもやめた。この年「経済学と正義、プルードンの経済学説の吟味と駁論」(〔L'Economie politique et la justice. Examen critique et re'futation des doctrines e'conomiques de M. P.−J. Proudhon. Paris.〕)を公にした。また同年七月、ローザンヌに開かれた国債租税会議に列席した。また同年ヴォー(Vaud)州が募集した租税に関する懸賞論文に応じた。一八六一年に出版された「租税理論批判」(〔The'orie critique de l'impo^t. Paris.〕)がそれである。プルードンの「租税理論」(〔The'orie de l'impo^t. Paris.〕)が第一等賞となり、レオンは第四等となった。
 レオンは一八六五年に至るもなお一定の職業を得なかったが、この頃|盛《さかん》になりつつあった協同組合運動に加わり、同年「庶民組合割引銀行」(Caisse d'escompte des associations populaires)の理事となり、これが一八六八年に破産するに至るまで、それに従事した。その間、あるいは協同組合運動に関する公開講演をなし、あるいは 〔Le'on Say〕 と共にこの運動の週刊雑誌「労働」(Le Travail)を発刊した。ひとたびこの雑誌に公にされた一八六七年と八年の公開講演「社会理想の研究」(〔Recherche de l'ide'al social〕)は一八六八年、単行書として出版された。その後銀行員となったりしているうちに、一八七〇年六月、レオンはルイ・リュショネー(Louis Ruchonnet)の来訪を受けたが、氏は近くローザンヌ大学に経済学講座が開設せられるべきことを報じ、かつその教授候補者となることをレオンにすすめた。レオンはこのすすめに応じ、この受験準備のため、八月七日ノルマンディーに赴き、静かな環境のうちに勉強した。試験官は州の名士三名と経済学者四名から成っていた。これら三人の名士はワルラスの採用に賛成したが、四人の経済学者のうち三人はこれに反対した。残る一人であるジュネーヴ大学教授であった経済学者ダメト(Dameth)は、ワルラスの数理経済学を正しいとは思わないが、しかしかような思想を発展せしめ講義せしめてみるのは、学問の進歩のために有益であろうといって、ワルラスの採用に賛成した。その結果、ワルラスはローザンヌ大学の教授に任命せられ、同年十二月十六日開講した。この時から、一八九二年にパレートが彼の講座を継ぐまで、ワルラスは数理経済学の建設に全努力を傾倒した。その間、一八七三年にまず「交換の数学的理論の原理」(〔Principes d'une the'orie mathe'matique de l'e'change〕)が公にせられ、一八七五年に「交換の方程式」(〔Equations de l'e'change〕)が、一八九六年に「生産の方程式」(Equations de la production)及び「資本化の方程式」(Equations de la capitalisation)が公にせられ、それらが綜合せられて「純粋経済学要論」(〔Ele'ments d'e'conomie politique pure〕)の第一版第一分冊が一八七四年に、第二分冊が一八七七年に出版せられ、第二版が一八八九年に、第三版が一八九六年に出版せられた。これら出版の事情と各版の相異とは原著第四版の序文に明らかにせられている。これらの相異のうち、貨幣の価値に関する第一版と第二版とのそれは、我々の注意に値するものであろう。マージェット(A. W. Marget)が指摘しているように、第一版に見られるフィッシャー流の貨幣数量説は、第二版においてケンブリッジ学派の数量説に変化しているのである(七)[#「(七)」は行右小書き]。
 ローザンヌ大学を退いて後も、ワルラスの学問的活動は停止していない。一八九六年には論文集「応用経済学研究」(〔Etudes d'e'conomie applique'e〕)を、一八九八年には論文集「社会経済学研究」(〔Etudes d'e'conomie sociale〕)を出版したほか、大小の論文を公にしている。
 翌年にはノーベル賞を目指して、著作を志している。一九〇七年の 〔Questions pratiques de le'gislation ouvrie`re et d'e'conomie politique〕 に公にされた論文「社会的正義と自由交換による平和[#「平和」は底本では「価格」、正誤表による訂正]」(〔La Paix par la justice sociale et le libre e'change〕)はその一端であるという。
 一九一〇年一月五日クララン(Clarens)に逝った。

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註一 〔L. Walras: Un initiateur en e'conomie politique: A. A. Walras, dans la Revue du mois, aou^t 1908, p. 173.〕
註二 本書原著第四版の序、二一頁参照。
註三 〔E. Antonelli: Un e'conomiste de 1830: Auguste Walras, dans la Revue d'histoire e'conomique et sociale, 1923, p. 529.〕
註四 オーギュストとクールノーとの関係については、L. Hecht: A Cournot und L. Walras, Heidelberg, 1930, p. 23 以下を参照。
註五 〔Antonelli: Le'on Walras, dans la Revue d'histoire des doctrines e'conomiques, 1910, p. 170. Cf. Bompaire: Du Principe de liberte' e'conomique dans l'oe&uvre de Cournot et dans celle de l'Ecole de Lausanne, p. 238.〕
註六 〔Antonelli: Principes d'e'conomie pure, pp. 24−5.〕
註七 〔A. W. Marget: Le'on Walras and the "Cash−Balance Approach" to Problem of the Value of Money, in the Journal of Political Economy, October 1931, pp. 569−600.〕
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     原著第四版の序

「純粋経済学要論」のこの第四版は最終版である(一)[#「(一)」は行右小書き]。一八七四年の六月、初版の巻頭に、私は今ここに転載しようとする次の文を書いた。
「一八七〇年、ヴォー州(Vaud)の参事院はローザンヌ大学の法学部に経済学の一講座の開設を計画し、かつその開設の準備として教授候補者を募った。私が今日あるのはこの見識ある発案の賜《たまもの》である。ことに、教育宗教局長で同時にスイス国聯邦参事院の一員であるルイ・リュショネー氏(Louis Ruchonnet)に負うところが大である。氏は、私にこの講座の教授候補者となることをすすめ、また私がこの講座を占めてからは、絶えず私を激励して、経済学及び社会経済学の基礎的概論の公刊を始めることを得せしめた。この概論は独創的方法によって仕上げられた新しいプランに基《もとづ》いて組み立てられ、その結論もまた――あえていっておかねばならぬが――ある点において現在の経済学の結論と同一ではない。
「この概論は三部に分《わか》たれ、各部は一巻二分冊として出版せられるであろうが、それぞれの内容は次の如くであろう。
 第一部 純粋経済学要論すなわち社会的富の理論。
 第一編 経済学及び社会経済学の目的と分け方。第二編 交換の数学的理論。第三編 価値尺度財並びに貨幣について。第四編 富の生産及び消費の自然的理論。第五編 経済的進歩の条件と結果。第六編 社会の経済組織の諸形態の自然的必然的結果。
 第二部 応用経済学要論すなわち農工商業による富の生産の理論。
 第三部 社会経済学要論すなわち所有権と租税とによる富の分配の理論(二)[#「(二)」は行右小書き]。
「今ここに現われようとしているのは、第一巻の第一分冊である。これには、任意数の商品相互の交換の場合における市場価格決定の問題の数学的解法と需要供給法則の科学的方式とが含まれている。私がそこで用いた記号法は、当初には、やや複雑に見えるかもしれない。だが読者はこの複雑さに辟易してはならない。なぜなら、この複雑さは問題に内在して止むを得ないものであると同時に、このほかに難解な数学は少しも用いられていないから。ひとたびこれらの記号のシステムが理解せられれば、このことだけで、経済現象のシステムは自ら理解せられる。
「今から一ヵ月ほど前私は、マンチェスター大学の経済学教授ジェヴォンス氏が私の問題と同じ問題について書いた「経済学の理論」(The Theory of Political Economy)と題せられる著作が、一八七一年に、ロンドンマクミラン会社から出版せられているのを知った。だがそのときには私の第一分冊は全く稿を了《お》え、かつ大方印刷をもおえていたし、またその理論の概要はパリの精神学及び政治学学士院に報告せられ、解説せられていたのである(三)[#「(三)」は行右小書き]。ジェヴォンス氏は私と同じく、数学的解析法を純粋経済学、特に交換の理論に応用している。そして氏のこの応用の一切は
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