、坊やは小さくても猪だから、狸位何でも無いネ。」
猪のおツ母さんは、頻《しき》りに坊やを褒《ほ》めてゐましたが、いつの間にか、うと/\と眠つてしまひました。悪戯《いたづら》ツ児《こ》の坊やは、おツ母さんの眠つてゐる間に、そうつと、山を下の方へ降りて行きました。
「坊や! 坊や!」と眼《め》を覚したおツ母さんは、きよろ/\其所《そこ》らを見廻《みまは》しましたが坊やは何所《どこ》にも居ませんでした。で、屹度《きつと》谷へ水遊びに行つたに違ひないと思つて、矢のやうに、山を下へ下へと駈《か》け下りました。けれども、坊やは谷へは行かないで、大きな樫《かし》の木の所で、
「やあい、おツ母《か》さんは僕《ぼく》を知らないのかツ。」と云《い》つて独りで嘲笑《あざわら》つてゐました。
四
熊《くま》の親子は谷川へ下りて来ました。
「此《この》石の下には、屹度《きつと》蟹《かに》が居るよ、さ、おツ母《か》さんがかうして、石を引起して居るから坊やは自分で蟹を掴《つか》んでお捕り……」
熊のおツ母さんは、ウント力を入れて、平たい五六十貫もあるやうな石を引起しました。すると其《そ》の石の下から、爪《つめ》の赤い小さい蟹が六ツも七ツも、ちよこ/\と逃げ出しました。
「あ、居る/\、沢山居る。」と黒ちやんは夢中になつて、蟹を捕つてゐました。
所へ山の上から大きな猪《ゐのしし》のおツ母さんが、どん/\走つて来ました。そして谷の中でビチヤ/\水音がするのを聞いた時、屹度《きつと》坊やが水遊びをして居るのだと思つたので、藪《やぶ》の中から大声で、
「おうい、お前は何うしてこんな所へ独りで来た?」と呶鳴《どな》りながら、岩の所からぬつと顔を出しました。
熊のおツ母さんは、不意に猪に呶鳴られたので、吃驚《びつくり》して思はず、力一杯引起して居た石から手を離しました。と、同時に足の所で、
「きやあ!」と言ふ声がしたのに気付いて見れば、可哀さうに黒ちやんは、大きな石の下になつて死んでゐました。
さあ大変です。熊のおツ母さんは気狂《きちがひ》の様になつて、
「大事の/\黒ちやんを殺したのは貴様だぞ! 覚ぼえてゐろ!」といひながら猪に向つて爪を剥《む》き出しました。
猪は又た自分の子が、石に抑《おさ》へられて死んだのだと考へ違ひをして、
「貴様は大事の/\私《わし》の坊やを、其の石で圧《おさ》へ殺したんだな。今に敵《かたき》を討《うつ》てやるぞ!」と、叫びながら、鋭い牙《きば》を剥き出しました。
熊と猪は、かみ合ひました。そして、日の暮れまでもお互に争つてゐました。
五
京内《きやうない》が里の茶店でお菓子を買つて貰《もら》つて、佐次兵衛《さじべゑ》に伴れられて山小屋へ帰つて来たのは、其《そ》の翌日でありました。
「さ、もう駄々《だだ》をこねるんぢやアないよ、お前のお蔭《かげ》で昨日今日は二人とも遊んで了《しま》つた。」と云《い》ひながら、佐次兵衛は京内をつれて谷川へ水を汲《く》みに行つて見ると、これはまあ何といふ事です。大きな猪《ゐのしし》と大きな熊《くま》が、二|疋共《ひきとも》引掻《ひつか》かれて、噛切《かみき》られて、大怪我《おほけが》をして死んで居るぢやありませんか。しかも二疋とも大きな石を腹の下に抑へて、頭を並べて死んで居るのです。能《よ》く/\見ると、石の下から小い黒い獣《けだもの》の足が二寸ばかり外へ出てゐました。
佐次兵衛が猪と熊とを引除《ひきの》けて石を引起した時、京内は可愛い可愛い熊の子が、赤い舌を出して死んでゐるのを見まして、ポロポロ涙を流しました。
「なア、畜生でも……これは屹度《きつと》この小い熊の子の為《ため》に親同志が喧嘩《けんくわ》をして死んだのだらう……」と云つてゐる時、藪《やぶ》の蔭《かげ》からコソ/\と小い猪の子が出て来て、直《す》ぐ逃げてしまひました。
佐次兵衛は、此《こ》の三疋の獣の為めに叮嚀《ていねい》にお葬式をしてやりました。
それから京内は大変孝行な子供になつて、一生懸命にお父さんと一緒に働いて名高い炭焼になりました。今に木炭は紀州の名高い産物の一つであります。
底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「赤い猫」金の星社
1923(大正12)年3月
初出:「金の船」キンノツク社
1919(大正8)年12月
※「不幸」と「不孝」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボラン
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
沖野 岩三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング