つてゐる時、二人の神さまが、おれを助けて下すつたんだ。おれは、もう、死ぬまで、さけはのみません。」と、いひました。
それから源八さんは、自分の家を、工場にしました。工場で、くわんづめを作りはじめました。
源八さんの国は、栗のたくさん、できるところで、毎年たくさんの栗を、日本中におくり出します。源八さんは、その栗を、くわんづめにしたのです。
源八さんの、くわんづめの、れつてるには、五十銭ぎんくわの上に、西洋人のかほと、魚かごとが、かいてあります。
五
魚屋の藤六《とうろく》さんの村に、大きな百くわ店ができました。気のきいた、そして正直な男を、はんばいがかりに、したいといつて、たづねてゐましたが、藤六さんが、一番よいだらうといつて、そこのはんばいがかりに、たのまれました。
藤六さんは、時時町へ行つて、いろんなものを、仕入れてきます。その品物の中で、一番よく売れる物は、「源八栗《げんぱちぐり》」といふ、栗のくわんづめでした。しかし藤六さんは、そのくわんづめを、どこで、つくつてゐるのだか、ちつとも、知りませんでした。
六
もうりい博士は、そのご、間もなく、西洋へかへりました。長く日本にゐた博士は、日本りうに、町の左がはを、あるいてゐました。ところが、その国は、右がは通行の、きそくでしたから、町のまがりかどで、自動車にぶつかつて、大けがをいたしました。
もうりい博士は、びやうゐんで一月あまり、やうじやうをしてゐるうちに、きふに、日本がこひしくなりました。で、かんごふに、日本せいの食物を、何でもいいから、買つてきて下さいといつて、たのみました。すると一時間ばかりたつて、かんごふは日本せいの、くりのくわんづめを、一つ、買つてかへりました。
博士はよろこんで、そのくわんづめの、れつてるを見ました。れつてるには「Gempachi《ゲンパチ》−|Kuri《クリ》」と書いてあります。日本に長くゐた博士は、くりといふ、わけはわかりましたが、げんぱち[#「げんぱち」に傍点]といふ、わけがわかりませんでした。
博士は、日本ごの、じびきをひらいて、みましたが、「たんば栗」「いが栗」「あま栗」などの、ことばは、ありましたが、「げんばちぐり」と、いふことばは、ありませんでした。
博士は、そこにかいてある、五十銭ぎんくわと、西洋人のかほと、さかなかごとの、ゑを見ましたが、なんのことやら、さつぱり、わかりませんでした。
博士は、そのくわんづめを、かんごふさんに、あけてもらつて、食べて見ましたが、じつに、うまい栗でしたから、もつと、買つてきて下さいと、たのみました。
間もなく、博士のへやには、源八栗の、くわんづめが、三十も四十も、あつまりました。それは、博士が、このくわんづめが、すきだといふので、みんなが、おみまひに、もつてきて、下すつたからです。
ある時、二人づれの、見まひきやくが、びやうゐんへ来た時、源八栗のしるしを、見てゐた一人が、
「このゑに、かいてある、人のかほは、もうりい博士そつくりですね。」と、いつたので、博士も、かんごふも、こゑをそろへて、一どに笑ひました。しかし、博士は、それいらい、その、れつてるに、かいてあるかほが、自分のかほであるやうに、思はれてなりませんでした。で、博士は、びやうゐんを、たいゐんしたあとで、あふ人ごとに、
「あのね、わたしのかほを、かいてある、日本の栗は、本たうに、おいしいですよ。あれをお買ひなさい。」と、申しましたので、いつの間にか、その国では、源八栗のことを、博士栗《はかせぐり》といふやうになりました。
七
日本では、源八さんの工場が、だんだん、さかんになりました。
藤六さんは、もうひくわんなど、けつしていたしません。うらの山では、木のえだに、ひつかかつた藤かづらが、まだそのままに、風に吹かれて、ぶらぶらしてゐます。山がらや、ほほじろが、そのかづらのわに、とまつて、面白い歌を、うたつてゐます。
底本:「日本児童文学大系 第一一巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「童話読本 四年生」金の星社
1938(昭和13)年12月
初出:「金の星」金の星社
1928(昭和3)年1月
入力:tatsuki
校正:田中敬三
2007年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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