長である。年は五十四五でもあろう。
 私は今日も此の老船長のような男に三百七呎の上空まで伴れて行ってもらった。彼は此の塔の訪問者の案内役であり、エレベーターのコンダクターであり、正午と六時のチャイムのミュージシャンでもあるのだ。エレベーターが停ると彼は、柔和な声で説明する。
『此の塔は高さ三百七呎、此の観望台は二百尺の位置にある。バークレー全市とサンフランシスコ湾と金門海峽が見える……向うの霞の中に見えるのがタマルパイの嶺、その左に連るのがゴールデンゲートの山々、その手前がエンゼルスアイランド、左に見えるがオークランド市……』
 それから眼下の校庭を指ざしながら、あれが図書館、これが自然科学館、それが物理学教室……と、さも自分の財産ででもあるかの如く愛撫の情を含みながら云う。
 説明が終った時、つめたい鉄柵を撫でながら私は言った。
『あなたは年がら年中、このブリッジに立って果しもない大海を眺め、潮風に吹かれ、雲の変化を見ているんですね、丁度船長のように。』
『全くその通りだ。』と相恰くずして喜んだカムパニールキーパーは続けて言った。『夏でも冬でも、晴天にも曇天にも、風が吹こうが雪が降ろうが、私はいつも此の通りに立っている。或時は寒流から押しよせて来る濃霧のために、眼前|咫尺《しせき》を弁じない事もあるが、今日のように、あの美しいタマルパイの姿をくっきり見せてくれる事もある。なるほど私は船長だ。パイロットだ!』
『ところが此の船はティッピングもローリングもしなくていいですね。』
『揺れないかわりに、動きもしない、大地のような安定な船だ。』
『随分多勢の人が毎日此の船に乗りましょうね?』
『ははは乗客はどんな日でもありますね、しかも世界中から集って来る。偉い人も偉くない人もある。或人は一目見ると直ぐ、ハハア此の人は偉いぞとわかる。だが時としては皆目見当のつかない人もある。とにかく人間というものは此の世の中で一番面白いものだ。』
 話しているうちに、何とも得体の知れないものが欄干の間から見えた。
『あれは?』
『コロシアムだ、大きな丼鉢のようだがあの容量《キャパシチイ》は八万人だ。あの中央の緑の美しいのをごらんなさい。秋になるとあすこでフットボールの競技があるのだ。』
 船長は時計を出してみて『あ、時間だ!』
 エレベーターはまた私たちを運んで下界に降した。降りながら彼は言った。
『近いうちに、あなたは此の高塔から日本の歌がチャイムとなって響くのを聞くだろう!』
 私はその意味がわからなかった。けれども、それから四五日経った或日の夕方であった。三人の日本人がコロシアムの壁上に立って、タマルパイの彼方に沈む紅い夕陽を眺めていると、六時の時報が高塔から響き出した。
『お、もう六時だ!』
 一人が塔の方を見た時、こは抑《そ》も何事ぞ! 高塔の上からバークレーの町々に、オークランドの家々に静かに流れ渡るその歌は。
『みどりもぞ濃き柏葉《はくよう》の、蔭を今宵《こよい》の宿りにて……』
 一高の寮歌が、カリフォルニヤ大学のカムパニールからチャイムとなって響いているのだ。
 感慨無量の体で涙ぐみながら聞き入っているのは一高出身の向野元生氏。その傍に立っていたのが、南満鉄道の貴島氏と、明治学院教授の鷲山弟三郎氏であった。云うまでもなく、此のチャイムのミュージシャンは、チャールス・ビ・ワイカーと云う誠実な高塔守である。



底本:「世界紀行文学全集 第十七巻 北アメリカ編」修道社
   1959(昭和34)年3月25日
底本の親本:「太平洋を越えて」四条書房
   1932(昭和7)年5月
入力:田中敬三
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
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