ある。山が崩壞して湖水を成したといふのは此の芹澤の山中に在りと傳へられたのである。或家で湖水の出來た所はどこだと聞いたが更に要領を得ない。幾人に聞いても分らない。これは聞き方が惡いのかと思つたから、更に山の崩れた所は無いかと聞いた。すると或者があゝあれかと無造作にいつた。さうしてなんでそんなものを尋ねるのかといふ顏付であとから來た。山は近かつた。如何にもあれかといふだけに過ぎない。山脚の一小部分が崩れて小さな溪流が一時塞がれたまゝである。水は土砂を潜つて今頻りに流れつゝあるのである。予は新聞紙の虚報にいたく失望せざるを得なかつた。山深く來たことの無意味であつたのが殘念で堪らなかつた。さう思ふと一刻も早く宿へ歸つて仕舞ひたいのである。
 峠の麓まで來た時には日はいくらもなかつた。古ぼけた一軒の家へ寄つて婆さんにねだつたら、手作りの草鞋を賣つて呉れた。栗は無いかと聞いたら、自分の食料に熬つたのがあるといつて一升桝へ山程盛つて來た。いくらだといふと一錢も置いてくがいゝといふのである。予は其小部分を外套の隱しへ押し込んで、峠は夜になるだらうが何も出ないだらうなと自分ながら弱い音を吐いた。何が出るものかいと婆さんが笑つた。栗を噬りながらせつせと歩いた。皮の儘で熬つた栗は堅いこと夥しい。あの婆さんがこんな石のやうなものをかぢるのかと驚いた位である。峠の登りを半分も來ると日は全く暮れた。松明一本も用意しなかつたのは考へると實に危險なのである。だん/\に樹木の茂りへかゝると闇さが加はつて來た。足もとに青く白く光るものがある。薄氣味惡く手に採つて見るとぬら/\としたものである。能く見るとそれは茸であつた。樹木は更に深くなる。然し三依に面した坂路は晝間見た所では曲折もなく勾[#「勾」は底本では「※[#「曷-日」、310-10]」]配も緩やかであつたから格別氣にもせずにせつせと歩いた。然しそれが無謀にも全く心あてに歩くに過ぎなかつたのである。樹蔭の一際暗い所であつたが、暗いと思つた瞬間に右の足を踏み外して身躰が轉々として數囘廻轉した。幸にして途中で留まつた。漸くのことで心を落ち付けて見ると、小石程の巖の碎けが夥しい中に予の體があつた。雨のために巖が崩れるとその碎けが溪に向つて瀧のやうになだれることがある。予の體の留つたのは其なだれの中間であるに相違ない。身を動かせばずる/\と下へこける。
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