見た。麦を焼いてる女に聞いて見たらそれは松魚船だといつた。こんな所で松魚が釣れるのかといつたら、そこでは松魚を釣る餌にする鰯を網ですくつて居るのだといつた。此から松魚が運ばれるのだと私は心に勇んだ。浜はこれまで不漁であつた。私は此の日はすべてが快かつた。さうしてもう帰らうと思つて見ると一段低い畑に婀娜な女が立つて居た。此の女が沖を遠く見て居たのである。私が小径へおりた時女も畑からおりて来た。私は此の女が私の隣座敷の客であつたことに気がついた。さうして女がどうしてこんな所へ来たものかと不審に思つた。だが私が窮屈な宿の座敷を出て散歩したことの愉快であつたことを思つた時その不審は晴れた。女も退屈まぎれに出たのだらうと思つた。女は私に近よつた時急に両手の袖を重ねて胸を掩うた。さうして余所を向いた。私は其日から隣座敷に心をおいて見るやうになつた。私の座敷は前にもいつたやうに二階の中の間で女の座敷は突き止りであつた。襖一枚が二つの座敷を隔てゝ居る。私は宿へついた時から隣座敷に女の客があることを知つて居た。只婀娜な女だと思つて居た。丘の畑で逢つてから急に私の注意が促されたのである。
 其次の日から空がまた六かしくなつた。私は湿つぽい室にばかり籠つて居た。身体がだるくなつて半日位うと/\と横になつて居ることもあつた。隣座敷の女も滅多に障子の外へさへ出ない。それでふつゝりと音沙汰もない。大方此も臥せつて居るのだらうと思はれるが私には女の座敷を覗く機会がない。一つの柱が両方の座敷を境してどちらの障子も其柱に建てつけてある。私は其柱から先へ理由もないのに一歩でも越えることは出来ない。越えて行つて見たとしても隣の座敷はひつそりと障子が閉てゝあるのであつた。それでも女が二階をおりて用達しに行くのには私の座敷の前を通らねばならぬ。其の時女は屹度袖で胸を掩うて居る。隣の障子がそつと開いた時いつでも私は目を欹てる。どうかすると女は障子を開けた儘私の座敷の前を通らぬことがある。私が障子の外へ出て見ると勾欄に両手をついて入江を見て居たのが障子をはたと締めて引つ込んで畢ふ。其時でも屹度衣物で胸を掩ふのである。散歩から帰つて見ると女は帳場の脇で新聞紙を見て居ることがある。女は隣座敷に只一人である。女一人で居るといふことがどうも私の腑に落ちぬ所であつた。さうかといつて女は決して厭らしい点はなくしをらしい容子であつた。或日隣の座敷では何かさら/\と巻紙でも巻いて居るやうな音が微かに聞えた。やがてばちりと筆を擱く音がしてそれからかたりと硯箱の蓋を落す音がした。ひつそりとした隣の座敷からは茶碗へ湯を汲む音さへはつきりと私の耳に響くのであつた。私の懐疑心は隣の座敷に対して神経を鋭敏にして居たのであつた。やがて女は一封の手紙らしいものを持つて、衣物で胸を掩ひながら私の座敷の前を通つて二階をおりて行つた。二三日たつてから私は少しの雨間を見て散歩に出た。復た此の間の畑へ行つて見た。青い煙も立つて居らなければ百姓の女も見えぬ。燃やして棄てた麦束は此の間の儘ぐつしよりと湿つて居る。僅かの間に白い野茨の花もなくなつた。懶げな海と相接して空がどんよりと低く垂れて居る。私は寂しさに堪へなかつた。宿へもどつたのは正午少し過ぎであつた。隣の座敷には草履が二足脱いであつてひそ/\と噺をして居るのが聞えた。私が自分の座敷の障子を開けてはひつた時噺は少し途切れたやうであつた。軈て又以前よりもひそ/\と語りはじめたやうである。女中が私へ昼餐を持つて来た時、隣の障子が開いて女は一人のお婆さんと階子段をおりて行つた。お婆さんは私の座敷をちらりと見て会釈して行つた。田舎の人としては品のいゝ怜悧相な人であつた。髪は油が乗つて居たが半分程は白いやうであつた。私はあのお婆さんは今日はじめて来た客かと女中に聞いて見た。女中はもう二三度来たことがあるので、隣の女もあのお婆さんが連れて来たのである。女はもう三週間ばかり隣の座敷に居るのである。さうしてお婆さんが来るといつでも此所の主人とお婆さんとで頻りに相談をして居るのだといつた。まだ海水浴といふ時節でもないから客も少ない此の港の宿に保養であるとしてもあの女は不思議である。私は箸をとりながら尚女中に聞いて見た。唯手持無沙汰にして聞くよりもかうして膳に向いて聞くのは私には張合があつた。
「私もよくは知りませんがね、あの方はお気の毒なんですと」
 女中は丸盆を膝に立てゝかういつた。
「お前知つてるかいそれを」
 私は聞かないわけには行かなかつた。
「本当はね、私知らないんですがね、さういふこといつてますんですよ」
「誰がいつてるんだい」
「此所の且那さんが他人でないんですつて、旦那さんがねあのお婆さんと噺しちや困つたなんていつていますよ、それだけですよ」
 私は土瓶から注いだ
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