入江を抱へた丘の一端は拳のやうに一段高い。其処に立つて居る一簇の老松の梢には夕方になれば鴉が四方から聚つて鬱陶しい雨に打たれながら騒ぐ。梢に棲みつくまでは飛び交し/\騒いで居る。二三日の間は此の鴉の騒ぎが私の心を引き立てた位であつた。一日空の模様がよくなり挂けたので私はすぐに散歩に出た。入江の岸を伝うて臭い漁師町を越して丘の間を小径の導くまゝに行つた。小径は貝殻の白く散らばつた畑の間の窪みである。ぽつ/\と穴が明いたやうに空には青い所が見えて来た。丘の間からところ/″\行手に青い煙の立つて居るのが見える。其煙は空へ明いた穴に吸はれるやうに真直に立ち騰つて行く。空の穴は心持よくずん/\と拡がつて行く。煙がすぐ近くに見えて小径がめぐつたと思つたら丘の上へ出た。畑がひろ/″\と見渡される。目の前には穢い衣物を着た女が其火を燃やして居るのを見た。それは麦の束であつた。穂先へ火のついた麦束を片手に翳して燃やしながら、片手に別の束をとつて其燃やして居る穂先から火を移す。めろ/\と燃えはじめたかと思ふと焦げた麦の穂がぼろ/\と落ちる。短くなつた燃えさしの麦束はぽつと傍へ投げ棄てる。そこにも煙はうすく立つ。女は燃やしては棄て/\非常に忙しげに手を動かして居る。私はふと燃えさしの麦束の散らばつたあたりに地にひつゝいて白い花の簇がつて居るのを見た。それは野茨の花であつた。軟かな長い枝がつやゝかな緑の葉をつけてすつと偃ひ出して居る。燃えさしの火が白い花を焦して居た。高低のある丘にはそこにもこゝにも麦を焼く煙が穏かな空気に浮んで行く。畑の女はたま/\の晴を見定めて麦の仕納をして畢はうといふのらしい。私はかういふ農事の仕方を此時はじめて見た。私は珍らしさに暫く立つて見て居た。空は一杯に晴れた。有繋に日は暑く照つて来た。私は爽快な丘の上を歩いた。海が丘の先に見え出した。海は一足毎に前に拡がつて来る。蟠屈した松が断崖に臨んで居る。私は好奇心から松の枝を攀ぢて見た。瞰おろすと波は唯白い泡である。岸に立つて見る波は大きいのも小さいのも必ず立ちあがつて来る。瞰おろす波は唯白い泡がざわ/\と動いて四方へ拡がるのみである。私は暫く其綺麗な白い泡の変化を見て居た。遠くを見ると褐色の断崖が連つて沖に相対して居る。打ちつける波が描く白い一線が水陸を画して居る。そこを去る時私はふと枝の間から近くに船の泛いてるのを
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