辨當を開いた。さうしてそこへ暫く横にならうとしたがうつかり木蔭のないところであつたからすぐ又歩き出した。余は毎日辨當が濟めば屹度そこに横臥する。それは身體がのび/\としていふべからざる愉快を感ずるからである。徒歩の旅行を苦んで續けて居るものでなければ此の味は解らぬであらう。又人家のある處を過ぎるとそこには鬱蒼たる松林がつゞいて居るので余はたまらず身を投げ倒すやうにして松の根がたへ横臥した。さうして居ると後から大きな聲で賑かに笑ひながら來るものがある。其中にさつきの女が居る。穢い百姓の老夫と此も百姓の穢い衣物で古い藁草履を穿いた年頃の女の子と三人である。女は余が歩き掛けた時に追ひついて復た一所になつた。女はさつき何處へ引つ掛つたと余に聞いた。それからそつちへ引つ掛りこつちへ引つ掛り丁度おれとおなじだ。おれは酒を飮んで來たところだと女は頗る元氣である。女の顏は赤くなつて居る。百姓の老夫は足もとがふら/\としながら少し涎の垂れ相なだらしのない口を開いて時々只はゝアと哄笑するのである。女の子は小麥藁の苞を荒繩で背負つて居る。藁のすいた所からよく見るとそれは鮪のしつぽであつた。其小麥藁の苞の一尺下には珍らしい小さな帶の結び目が拵へてある。それが女の繻子の帶と對照して一層みじめなものに見える。やがて三人は松林の中のある岐道から入つて行つた。其時おらあ此所でおめえと分れだと女がいつた。さうして百姓の老夫は故もなく余を見てはゝアと哄笑した。余はそれからは獨でポツ/\と街道を運ぶ。作並《さくなみ》といふ村へかゝる。左右の山が迫つて廣瀬川はもう見違へる程狹く且つ淺い流になつて近く姿をあらはして居る。作並の長い村も既に盡きるころになると行手を遮つて峻嶺が聳えて見える。此は出羽と天然の境界を形つて居る關山峠である。此の峻嶺を擁して作並の温泉宿があるのである。余は店先から聲をかけた宿引に止められて此の温泉で一日の疲勞を醫することにした。小女が濯ぎを汲んで來る。小女は筒袖である。余は穢い一室へ案内された。やがて別の女が來て浴槽へ案内するからといふので其女の後へ跟いて行く。此女も筒袖である。女は梯子段のやうに拵へた階段をおりる。幾らかうねり/\下へ/\と行く。板葦屋根が覆うて居てそれがもう古くなつて朽ち掛けたりした所もあるので地底の坑内へでもはひるやうな心持である。女は髮へ白いリボンを插して居る。こんな僻地でも街道に當つて居るだけにかういふ裝飾品も行はれて居るのであらう。それにしてもどれ程此のリボンが女の心を惹いたことであらうかと思ふと其不調和な處に懷しいやうなところもある。それから女は極めて狹い帶を締めて臀には漸く拳位ともいひたいやうな小さな結び目を拵へて居る。余は此滑稽な程小さな結び目と白いリボンとを見ながら段をおりて行く。だん/\行くと遙かな底の方に人の聲が聞える。楷段が竭きるとそこに浴槽がある。近所の山のものらしい人物が五六人浴槽の側にぐつたりと茹つたやうになつて只手拭をしめしては少しづゝ身体へ掛けて居る。浴槽の外は直に溪流で狹い水が僅かに巖にせかれて落ちて行く。廣瀬川がこんなに成つたのかと思ふと驚く程の變化である。斷崖からは緑樹が掩ひかぶさつて藤の大きな蔓が緑樹の枝から垂れて居る。下流は兩岸相迫つて薄闇い。子供等が四五人でがや/\と騷ぎながら此溪流の淀みに泳いて居る。余は此の楷段はどの位あるかと女に聞いて見たら何でも百四五十はあるだらうといつた。女は浴槽に一々手をさし入れて加減を見てあるく。余はすぐに衣物をとつて浴槽へ一寸飛び込んだ。さうして子供と一つになつて泳いで見た。少し流の急になつた所へ行くと身体が恐ろしい勢でぐつと突き返される。女は裾をかゝげて浴槽の側の石へ乘つてひた/\水に足を洗つて居る。さうして其水に立ちながら余等が泳ぐのを見て居る。余は溪流にひたつた儘見ると宿は遙かに高い岸の上に建てられてあつて浴槽へ通ずる楷段はうねりくねつた長い妙な箱が斜に釣り下げてあるやうなものである。つまり箱の内部を人が一つ/\と運んで往復するのである。余は冷たくなつたから復た浴槽へ飛び込んだ。女はかゝげた裾を外して濡れた足のあとを板の上に印しながら楷段を昇つて行く。だん/\リボンを插した髮が隱れて小さな帶の結び目が隱れて最後に足のうらがちらりと見えて姿は全く其洞穴のやうな楷段の上方に隱れてしまつた。
四
九月五日
雨戸ががら/\と開くと共に余は起きた。まだしら/\明である。前夜の女がいひつけておいた辨當を持つて來て、こんな山の中で何も菜がないから生卵などではどうかと聞く。辨當の菜に生卵は少し困つたことだと思つたが、女の濁つたやうな太い訛つた聲で然かも膝をついて丁寧にいふのが氣に入つたから余は即座にそれでもいゝといつた。女はやつぱり狹い帶をしめて居る。卵はつぶれぬやうに紙へ包んでそれを手拭の端へ括つて兵兒帶へくつゝけた。
夜は全く明け放れた。時計を見るとまだ五時半にならぬ。空は晴れて淡紅色を含んだ灰色である。行手の峻嶺が頂上僅かに日光をうけてほつかりと赤くなつて居る。路傍の芒の穗はさま/″\な草の花と共にしつとりと露を宿して居る。溪流について行く。即ち此も廣瀬川の水である。溪流はずん/\狹くなつて街道が高くなるのに氣がつく。峻嶺の緑が身に迫つて來る。余は此の朝の空氣に包まれて秋の冷かさが薄い單衣を透してしみ/″\と身にしみこむやうに感じた。歩いて居るあたりまではまだ日は射さぬ。峻嶺の頂は段々下の方まで日光が射し掛けて來る。それと共にさつきの赤い光は薄らいだ。山腹をうねつて行くと所々山のはざまを漏れて日光が路傍の草村へきら/\と射してることがある。ふりかへつて見ると其草村に交つて青い細い莖の先へ白い玉を乘せたやうな星月夜の花から薄く霧が立ち騰る。霧は四五尺のぼつて日光のきらつく中へ消えてしまふ。既に深くなつた溪流の向うの岸の汀から朴の木が存分に葉を廣げて立つて居るのがある。余は小石をとつて朴の木へ投げて見た。幾つかとつて投げた小石の只一つが梢に落ちたと見えて葉が五六枚上の枝から下の枝へひら/\と動いたやうであつた。すぐ近くだと思つた朴の木は余が腕の力では容易に小石が屆かぬのに驚いた。坂路は此の如くにしていつ登るとも知れぬうちに嶺の頂が非常に短くなつて居た。顧ると谿が深く且つ遠くなつてしまつた。稍伏見に見渡す山々は此の谿の底まで一帶に密樹の梢を以て掩はれてある。さうして谿は藥研の底のやうな形をして或度の傾斜を保ちながら遙かに向へ走つて居る。朴の木のもとを洗つて作並の浴槽の側を過ぎ行く水はこゝから見える密樹の根からしぼれ出る雫の聚りである。浴槽の側で昨日女が足を洗うた水は今頃は走り走つて青葉城のめぐりをめぐつて居るかも知れぬ。さうして海へ/\と志して居るのであらう。余は足をやすめながら暫く谿を見おろして立つて居た。幽かな水の響が聞えて來るやうで聞えぬやうで閑寂ないかにも人の心を惹くべき山の趣である。街道はこゝで一切のものを蹙めて山を穿つた洞門へ導く。洞門は闇くして且つ恐ろしく長い。洞門を出るとそこには豁然として壯大な出羽の國が展開する。うんと力を入れて踏ん込んだやうな山の脚に從つてこゝも坂路はゆるやかである。遙かなる空を遮つて聳ゆる連山の間に峰の丸い然かも雄大な山が一つ見える。花崗岩を爆裂させた趾のやうな白い所が幾つも見える。燎原の煙のやうな亂雲が朝の活動を始めたかの如くむら/\と其山から空へ吹き立つて居る。だん/\坂をおりて行くと一人の老婆が二人の若い娘を連れて峠を登つて來るのに逢うた。今朝から此の峠で逢つたものは此の三人連のみである。三人とも連尺《れんじやく》で荷物を負うて居る。老婆はまだ峠は遠いかと聞く。余は老婆の身支度を見るのに始めて此の峠にかゝつたものではない。然し足の疲れた時には自分の知つて居る道程でも屡人に聞いて見たくなるのが余の經驗から明かなので此の老婆も屹度それだらうと思つた。余は懇に教へた。さうしてあの丸い形の山は何だと聞いたら老婆の一足先に立ち止つて杖に兩手を掛けて居た一人の娘があれは月山だといつた。さうしてあの白いのは雪だといつた。老婆も娘も決して賤しいものゝ姿ではない。然し峠といふ天然の一大障礙はこのやうな弱い人々をもかひ/″\しい草鞋穿の姿にいでたゝしむるのである。余は數日來出會うた少女が孰れも皆狹い帶を締めて居たので此時ふつと此の娘等の帶の結び目がどんなであらうかと思つたから荷物を横に搖りながらいた/\しげに登つて行く後姿を一遍見あげた。然し單衣の裾はぐるつとかゝげて帶を掩うて紐で括つてあつたから白いゆもじが目に立つのみで其帶の結び目はそれはかゝげた裾に隱されて見えなかつた。[#地から1字上げ](明治四十二年一月一日發行、アララギ 第一卷第二號所載)
底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
※「人家のある愛子《あいし》」の「愛子《あいし》」に付したと思われる「ママ」の注記は、底本では「ある」にかかっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2000年5月10日作成
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