る。遙かなる空を遮つて聳ゆる連山の間に峰の丸い然かも雄大な山が一つ見える。花崗岩を爆裂させた趾のやうな白い所が幾つも見える。燎原の煙のやうな亂雲が朝の活動を始めたかの如くむら/\と其山から空へ吹き立つて居る。だん/\坂をおりて行くと一人の老婆が二人の若い娘を連れて峠を登つて來るのに逢うた。今朝から此の峠で逢つたものは此の三人連のみである。三人とも連尺《れんじやく》で荷物を負うて居る。老婆はまだ峠は遠いかと聞く。余は老婆の身支度を見るのに始めて此の峠にかゝつたものではない。然し足の疲れた時には自分の知つて居る道程でも屡人に聞いて見たくなるのが余の經驗から明かなので此の老婆も屹度それだらうと思つた。余は懇に教へた。さうしてあの丸い形の山は何だと聞いたら老婆の一足先に立ち止つて杖に兩手を掛けて居た一人の娘があれは月山だといつた。さうしてあの白いのは雪だといつた。老婆も娘も決して賤しいものゝ姿ではない。然し峠といふ天然の一大障礙はこのやうな弱い人々をもかひ/″\しい草鞋穿の姿にいでたゝしむるのである。余は數日來出會うた少女が孰れも皆狹い帶を締めて居たので此時ふつと此の娘等の帶の結び目がどんなであらうかと思つたから荷物を横に搖りながらいた/\しげに登つて行く後姿を一遍見あげた。然し單衣の裾はぐるつとかゝげて帶を掩うて紐で括つてあつたから白いゆもじが目に立つのみで其帶の結び目はそれはかゝげた裾に隱されて見えなかつた。[#地から1字上げ](明治四十二年一月一日發行、アララギ 第一卷第二號所載)



底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
   1977(昭和52)年1月31日発行
※「人家のある愛子《あいし》」の「愛子《あいし》」に付したと思われる「ママ」の注記は、底本では「ある」にかかっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2000年5月10日作成
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