一徹の心は昏んでしまひました。彼は夜の明けるのが待遠でたまりません。飛んだ申譯のないことをして呉れたなアといふのが思案に餘る爺さんの口から庄次へ浴びせた強く鋭い小言でありました。
庄次にはそれが何の事であるのかサツパリ解りませんでした。庄次は常にない爺さんの顏色を見てこれは容易なことではないと合點しました。がしかし彼は何にも言はず默つて居ました。さうして自分の務に赴きました。
爺さんは轉げ込むやうに地主の戸口を跨ぎました。私もこんな年齡《とし》に成りながら、遂そんな心配もあるまいと、迂濶に油斷をした許に取り返しのつかないあなたの娘さんへ傷をつけまして、懲《こら》せと申されゝば野郎は手でも足でも打ち折りますが、どうか此から娘さんの方もお氣をつけなすつてと彼は呼吸も喘々《せか/\》として冷たい汗を流しました。此だけいふのに幾度堅唾を嚥んだか知れません。彼は庄次がお杉さんを誘惑したとばかり思ひ込んで畢つたのでした。お杉さんは昨夜も庄次が居ると思つて瓜畑へ忍んだのだと一も二もなくさう極めて畢つたのであります。
爺さんは只一筋にさうおもひ詰めたのだから、その心には庄次の口から一度どんな姿にも事實を吐かせようとする餘裕さへ起らなかつたのであります。彼は只地主から非常な譴責《しかり》を受けたいのでありました。怪しからぬ事だ、不都合千萬な伜だ、貴樣の仕つけがよろしくないからかういふ事を仕出かしたのだと散々に叱られてさうして自分自身の噪ぐ心を落付けさせたいのでありました。これが爺さんの心の願ひでした。
爺さんの詫言を聞いた地主は有繋にそんなことがあつたかと一度は駭いたのでありましたが、どうか世間に襤褸を出したくないといふ考が第一に其心に湧きました。そこで地主はそつとお杉を呼んで聞いて見ましたが、お杉は俯向いた儘萎れて何にもいひませんでした。爺さんからきつぱりとした噺を聞された地主の心にはもう直ぐに「判斷」がつきました。さうしていつそのこと、そんな事に成つたならお杉は庄次へ嫁に遣らうといふことに極めたのであります。
庄次は見處の有る人間であるといふのが地主の心を動かしたのであります。併しながら今の儘では行つた娘も可哀想だから、どうにか食つて通れる丈の田畑も其身に附けてやらうといふのであります。尤も其の事は其日の内に極つたのではありませんが、段々と家内相談があつて自然とさう成りました。
さてさうなると、まづ第一に爺の意志を確めねばならぬから、招《よ》んでその趣を腹藏なく打あけて相談に及びました。けれども爺さんには今地主から言はれたことがどうしても眞實《まこと》として請取ることが出來ませんでした。律義な爺さんにはどうしても身分が違ふからといふ恐怖が先ち[#「先ち」はママ]ました。併しながら、地主の言ふ事がすつかりと解つた時に爺さんは地主の前に熱い涙を溢して泣きました。
さうして家へ歸るまでは何だか足がふら/\して心はまるで雲の中にでも住んでゐる樣でした。歸つて庄次にこの話をして飛んでもない、此を忘れるやうでは人間ではないからと叱るやうにいつて聞かせて軈てそこでも嬉しいといつて泣きました。
庄次は突然な出來事を聞かされて無垢な青年に通有《ありがち》な一種の慄ひを禁じ得ませんでした。庄次はこれ迄お杉さんと何の關係も無かつた許でなく、彼の心には平常少しの疚しい心をも抱いて居るのではありませんでした。兩人の仲は芽出度取結ばれました。お杉さんは田舍で生れて田舍で成長した女であります。貧しい家の嫁として勞働するのに心から何の不足も訴へません。
事件は恁うして互に僞なき心から無雜作に決定して、あとは再び沼の水のやうな平靜の状態が長く續[#「續」は底本では「績」]きました。夫婦の間には子が幾人か生れました。爺さんの死後二人は依然として瓜を作ることを止めませんでした。瓜畑には毎年沼の水に浮んだやうな地味な小さな花が開きました。荷車を曳いて行く庄次は強健な皮膚《はだ》が暑い日に光りました。それから荷車の後を押して行くお杉さんも白かつた頬が日に燒けて脊には何時でも小さな子が首をくつたりと俛《うなだ》れて眠つて居ました。只夫婦が市場へ曳いて行く籠の中には青瓜が油ぎつたつやゝかさを保つて白瓜が依然として美しい白さを保ちながら微笑《ほゝゑ》んで居ました。
[#地から1字上げ](明治四十五年一月十五日發行、女學世界定期増刊 第拾貮卷第貮號所載)
底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2000年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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