目《め》を蹙《しか》めて居《ゐ》た。慌《あわ》てた與吉《よきち》の手《て》は其《そ》の軸木《ぢくぎ》の先《さき》から徒《いたづ》らに毛《け》のやうな煙《けぶり》を立《た》てるのみであつた。彼《かれ》は焦躁《じ》れて卯平《うへい》の足《あし》もとの灰《はひ》へ燐寸《マツチ》の箱《はこ》を投《な》げた。箱《はこ》はからりと鳴《な》つた。箱《はこ》の底《そこ》はもう見《み》えて居《ゐ》たのである。卯平《うへい》は目《め》を蹙《しか》めた儘《まゝ》燐寸《マツチ》をとつて復《また》すつと擦《す》つて、ゆつくりと軸木《ぢくぎ》を倒《さかさ》にして其《そ》の白《しろ》い軸木《ぢくぎ》を包《つゝ》んで燃《も》え昇《のぼ》らうとする小《ちひ》さな火《ひ》を枯燥《こさう》した大《おほ》きな手《て》で包《つゝ》んで、大事相《だいじさう》に覗《のぞ》いた。それが復《また》二三|度《ど》反覆《くりかへ》された。手《て》の内側《うちがは》がぼんやりとしてそれから段々《だん/\》に明《あか》るく成《な》つて火《ひ》は漸《やうや》く保《たも》たれた。茶釜《ちやがま》の底《そこ》に觸《ふ》れるばかりに突込《つゝこ》まれた落葉《おちば》には斯《か》うして火《ひ》が點《つ》けられた。落葉《おちば》には灰際《はひぎは》から其《そ》の外側《そとがは》を傳《つた》ひて火《ひ》がべろ/\と渡《わた》つた。卯平《うへい》は不自由《ふじいう》な手《て》の火箸《ひばし》で落葉《おちば》を透《すか》した。火《ひ》は迅速《じんそく》に其《そ》の生命《せいめい》を恢復《くわいふく》した。彼等《かれら》の爲《ため》に平生《へいぜい》殆《ほと》んど半《なかば》以上《いじやう》を無駄《むだ》に使《つか》はれて居《ゐ》る焔《ほのほ》が竈《かまど》の口《くち》から捲《まく》れて立《た》つた。然《しか》し其《そ》の餘計《よけい》に洩《も》れて出《いづ》る焔《ほのほ》が彼《かれ》の自由《じいう》を失《うしな》うて凍《こほ》らうとして居《ゐ》る手《て》を暖《あたゝ》めた。彼《かれ》は横《よこ》に轉《ころ》がした大籠《おほかご》からかさ/\と掻《か》き出《だ》しては燃《も》え易《やす》い落葉《おちば》を間斷《かんだん》なく足《た》した。
 與吉《よきち》は卯平《うへい》の側《そば》から斜《なゝめ》に手《て》を出《だ》して居《ゐ》た。卯平《うへい》は與吉《よきち》の小《ちひ》さな足《あし》の甲《かふ》へそつと手《て》を觸《ふ》れて見《み》た。手《て》も足《あし》も孰《どつち》もざら/\とこそつぱかつた。與吉《よきち》は斜《なゝめ》に身《み》を置《お》くのが少《すこ》し窮屈《きうくつ》であつたのと、叱言《こごと》がなければ唯《たゞ》惡戲《いたづら》をして見《み》たいのとで側《そば》な竈《かまど》の口《くち》へ別《べつ》に自分《じぶん》で落葉《おちば》の火《ひ》を點《つ》けた。針金《はりがね》のやうな火《ひ》をちらりと持《も》つた落葉《おちば》の一《ひと》ひら/\が煙《けぶり》と共《とも》に輕《かる》く騰《のぼ》つた。落葉《おちば》は直《す》ぐに白《しろ》い灰《はひ》に化《な》つて更《さら》に幾《いく》つかに分《わか》れて與吉《よきち》の頭髮《かみ》から卯平《うへい》の白髮《かみ》に散《ち》つた。煙《けぶり》の中《なか》には其《そ》の白《しろ》い灰《はひ》が後《あと》から/\と立《たつ》て落《お》ちた。與吉《よきち》はいつも彼等《かれら》の伴侶《なかま》と共《とも》に路傍《みちばた》の枯芝《かれしば》に火《ひ》を點《てん》じて、それが黒《くろ》い趾《あと》を残《のこ》してめろめろと燃《も》え擴《ひろ》がるのを見《み》るのが愉快《ゆくわい》でならなかつた。彼《かれ》は又《また》火《ひ》が野茨《のいばら》の株《かぶ》に燃《も》え移《うつ》つて、其處《そこ》に茂《しげ》つた茅萱《ちがや》を燒《や》いて焔《ほのほ》が一|條《でう》の柱《はしら》を立《た》てると、喜悦《よろこび》と驚愕《おどろき》との錯雜《さくざつ》した聲《こゑ》を放《はな》つて痛快《つうくわい》に叫《さけ》びながら、遂《つひ》には其處《そこ》に恐怖《おそれ》が加《くは》はれば棒《ぼう》で叩《たゝ》いたり土塊《つちくれ》を擲《はふ》つたり、又《また》は自分等《じぶんら》の衣物《きもの》をとつてぱさり/\と叩《たゝ》いたりして其《その》火《ひ》を消《け》すことに力《つと》めるのであつた。迅速《じんそく》で且《かつ》壯快《さうくわい》な變化《へんくわ》を目前《もくぜん》に見《み》せる火《ひ》が彼等《かれら》の惡戲好《いたづらずき》な心《こゝろ》をどれ程《ほど》誘導《そゝ》つたか知《し》れない。彼《かれ》は落葉《おちば》を攫《つか》んでは竈《かまど》の口《くち》に投《とう》じてぼうぼうと燃《も》えあがる焔《ほのほ》に手《て》を翳《かざ》した。茶釜《ちやがま》がちう/\と少《すこ》し響《ひゞき》を立《た》てゝ鳴《な》り出《だ》した時《とき》卯平《うへい》は乾《ひから》びたやうに感《かん》じて居《ゐ》た喉《のど》を濕《うるほ》さうとして懶《だる》い臀《しり》を少《すこ》し起《おこ》して膳《ぜん》の上《うへ》の茶碗《ちやわん》へ手《て》を伸《のば》した。自由《じいう》を缺《か》いて居《ゐ》た手《て》が、爪先《つまさき》で持《も》つた茶碗《ちやわん》をころりと落《おと》させた。茶碗《ちやわん》の底《そこ》に冷《つめ》たく成《な》つて居《ゐ》た少《すこ》しの水《みづ》が土間《どま》へぽつちりと落《お》ちてはねた。飯粒《めしつぶ》が共《とも》に散《ち》らばつた。彼《かれ》は又《また》悠長《いうちやう》に茶碗《ちやわん》をとつて汚《よご》れた部分《ぶゞん》を手《て》でこすつて、更《さら》に茶釜《ちやがま》の熱湯《ねつたう》を注《そゝ》いで足《あし》もとの灰《はひ》へ傾《ま》けた。蓋《ふた》をとつたのでほう/\と威勢《ゐせい》よく立《た》つて居《ゐ》る水蒸氣《ゆげ》がちら/\と白《しろ》く立《た》つて落《お》ちる灰《はひ》を吸《す》うた。彼《かれ》は漸《やうや》くにして柄杓《ひしやく》の手《て》を放《はな》つて再《ふたゝ》び茶釜《ちやがま》の蓋《ふた》をした時《とき》俄《にはか》にぼうつと立《た》つた焔《ほのほ》の聲《こゑ》を聞《き》いた。彼《かれ》が思《おも》はず後《うしろ》を見《み》た時《とき》與吉《よきち》の驚愕《きやうがく》から發《はつ》せられた泣《な》き聲《ごゑ》が耳《みゝ》を打《う》つた。熾《さかん》な火《ひ》の柱《はしら》が近《ちか》く目《め》を掩《おほ》うて立《た》つて居《ゐ》た。彼《かれ》は又《また》直《すぐ》に激《はげ》しい熱度《ねつど》を顏《かほ》一|杯《ぱい》に感《かん》じた。火《ひ》はどうした機會《はずみ》か横《よこ》に轉《ころ》がした大籠《おほかご》の落葉《おちば》に移《うつ》つて居《ゐ》たのである。與吉《よきち》は初《はじ》め野外《やぐわい》の惡戲《あくぎ》に用《もち》ゐた手段《しゆだん》を以《もつ》て其《そ》の火《ひ》を叩《たゝ》いて消《け》さうとし又《また》掻《か》き出《だ》さうとした。乾燥《かんさう》した落葉《おちば》は迅速《じんそく》に火《ひ》を誘導《いうだう》して彼《かれ》の横頬《よこほゝ》を舐《ねぶ》つて、彼《かれ》は思《おも》はず聲《こゑ》を放《はな》つたのである。卯平《うへい》は慌《あわ》てて再《ふたゝ》び茶碗《ちやわん》を落《おと》した。彼《かれ》は突然《いきなり》與吉《よきち》を傍《かたはら》に掻《か》き退《の》けた。彼《かれ》はさうして無意識《むいしき》に火《ひ》に成《な》つた落葉《おちば》を掻《か》き出《だ》さうとして、自由《じいう》を失《うしな》うた手《て》の鈍《のろ》い運動《うんどう》が其《そ》の火《ひ》を消《け》すに何《なん》の功果《こうくわ》もなかつた。彼《かれ》は焔《ほのほ》の儘《まゝ》に輕《かる》い落葉《おちば》の籠《かご》を庭《には》へ投《な》げればよかつたのである。疾風《しつぷう》は必《かなら》ず其《そ》の落葉《おちば》を散亂《さんらん》せしめて、火《ひ》は遠《とほ》く燃《も》えながら走《はし》るにしても、片々《へんぺん》たる落葉《おちば》は廣《ひろ》い區域《くゐき》に悉《ことごと》く其《そ》の俤《おもかげ》をも止《とゞ》めないで消滅《せうめつ》して畢《しま》はねば成《な》らぬのであつた。然《しか》しながら慌《あわ》てた卯平《うへい》の手《て》は此《かく》の如《ごと》き簡單《かんたん》で且《かつ》最良《さいりやう》である方法《はうはふ》を執《と》る暇《ひま》がなかつた。火《ひ》は復《また》怒《いか》つて彼《かれ》の頬《ほゝ》を舐《ねぶ》り彼《かれ》の手《て》を燒《や》いた。彼《かれ》の目《め》は昏《くら》んだ。一|時《じ》に激《げき》した落葉《おちば》の火《ひ》はそれが久《ひさ》しく持續《ぢぞく》されなくても老衰《らうすゐ》した卯平《うへい》の心《こゝろ》を奪《うば》ふには餘《あま》りあつた。卯平《うへい》の視力《しりよく》が再《ふたゝ》び恢復《くわいふく》した時《とき》には火《ひ》は既《すで》に天井《てんじやう》の梁《はり》に積《つ》んだ藁束《わらたば》の、亂《みだ》れて覗《のぞ》いて居《ゐ》る穗先《ほさき》を傳《つた》ひて昇《のぼ》つた。火《ひ》は乾燥《かんさう》した藁束《わらたば》の周圍《しうゐ》を舐《ねぶ》つて、更《さら》に其《その》焔《ほのほ》が薄闇《うすぐら》い家《いへ》の内《うち》から遁《のが》れようとして屋根裏《やねうら》を偃《は》うた。それが迅速《じんそく》な火《ひ》の力《ちから》の瞬間《しゆんかん》の活動《くわつどう》であつた。舐《ねぶ》つた火《ひ》は更《さら》に此《こ》れを噛《か》んでずた/\に崩壞《ほうくわい》した藁束《わらたば》は其《そ》の火《ひ》を保《たも》つた儘《まゝ》既《すで》に其《そ》の勢《いきほ》ひを沈《しづ》めた落葉《おちば》の上《うへ》にばら/\と亂《みだ》れ落《おち》て其處《そこ》に復《ま》た火勢《くわせい》が恢復《くわいふく》された。惘然《ばうぜん》として自失《じしつ》して居《ゐ》た卯平《うへい》は藁《わら》の火《ひ》を浴《あ》びた。彼《かれ》は慌《あわ》てゝ戸口《とぐち》へ遁《に》げ出《だ》した時《とき》火《ひ》は既《すで》に赤《あか》い天井《てんじやう》を造《つく》つて居《ゐ》た。煙《けぶり》は四|方《はう》から檐《のき》を傳《つた》ひてむく/\と奔《はし》つて居《ゐ》た。蛇《へび》の舌《した》の如《ごと》くべろ/\と焔《ほのほ》が吐《は》き出《だ》された。吹《ふ》き募《つの》つて居《ゐ》る疾風《しつぷう》は直《す》ぐに其《その》赤《あか》い舌《した》を吹《ふ》き拗切《ちぎ》らうとした。後《あと》から/\と勢力《せいりよく》を加《くは》へて吐《は》き出《だ》す煙《けぶり》や焔《ほのほ》は穗《ほ》の如《ごと》く壓《お》し靡《なび》かされた。
 火《ひ》は瞬間《しゆんかん》に處々《ところ/″\》落《お》ち窪《くぼ》んで窶《やつ》れた屋根《やね》を全《まつた》く包《つゝ》んで畢《しま》つた。卯平《うへい》は數分時《すうふんじ》の前《まへ》に豫期《よき》しなかつた此《こ》の變事《へんじ》を意識《いしき》した時《とき》殆《ほと》んど喪心《さうしん》して庭《には》に倒《たふ》れた。土塊《どくわい》の如《ごと》く動《うご》かぬ彼《かれ》の身體《からだ》からは憐《あはれ》に微《かす》かな煙《けぶり》が立《た》つて地《ち》を偃《は》うて消《き》えた。藁《わら》の火《ひ》を沿《あ》びた時《とき》其《そ》の火《ひ》が襤褸《ぼろ》な彼《かれ》の衣物《きもの》を焦《こが》したのである。然《しか》し其《そ》の火《ひ》は灸《きう》の如《ごと》き跡《あと》をぽつ/\と止《とゞ》めたのみで衣物《きもの》の心部《しんぶ》は深《ふか》く噛《か》まなかつた。埃《ほこり》は彼《か
前へ 次へ
全96ページ中86ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長塚 節 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング