知《し》つて之《これ》を求《もと》めて居《ゐ》るのだといふことは彼《かれ》は始《はじ》めて見《み》て始《はじ》めて知《し》つた。彼《かれ》は滅多《めつた》に川《かは》を越《こ》えて出《で》ることはなかつたのである。
 勘次《かんじ》は自分《じぶん》の壁際《かべぎは》には薪《たきゞ》が一|杯《ぱい》に積《つ》まれてある。其《その》上《うへ》に開墾《かいこん》の仕事《しごと》に携《たづさ》はつて何《なん》といつても薪《たきゞ》は段々《だんだん》殖《ふ》えて行《ゆ》くばかりである。更《さら》に其《そ》の開墾《かいこん》に第《だい》一の要件《えうけん》である道具《だうぐ》が今《いま》は完全《くわんぜん》して自分《じぶん》の手《て》に提《さ》げられてある。彼《かれ》は恁《か》ういふ辛苦《しんく》をしてまでも些少《させう》な木片《もくへん》を求《もと》めて居《ゐ》る人々《ひとびと》の前《まへ》に矜《ほこり》を感《かん》じた。彼《かれ》は自分《じぶん》の境遇《きやうぐう》が什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》であるかは思《おも》はなかつた。又《また》恁《か》ういふ人々《ひとびと》の憐《あは》れなことも想《おも》ひやる暇《いとま》がなかつた。さうして彼《かれ》は自分《じぶん》の技倆《うで》が愉快《ゆくわい》になつた。彼《かれ》は再《ふたゝ》び土手《どて》から見《み》おろした。萬能《まんのう》を持《も》つて居《ゐ》るのは皆《みな》女《をんな》で十三四の子《こ》も交《まじ》つて居《ゐ》るのであつた。人々《ひと/″\》の掘《ほ》り起《おこ》した趾《あと》は畑《はたけ》の土《つち》を蚯蚓《みゝず》が擡《もた》げたやうな形《かたち》に、濕《しめ》つた砂《すな》のうね/\と連《つらな》つて居《ゐ》るのが彼《かれ》の目《め》に映《うつ》つた。
 彼《かれ》は家《うち》に歸《かへ》ると共《とも》に唐鍬《たうぐは》の柄《え》を付《つけ》た。鉈《なた》の刀背《みね》で鐵《てつ》の楔《くさび》を打《う》ち込《こ》んでさうして柄《え》を執《と》つて動《うご》かして見《み》た。次《つぎ》の朝《あさ》からもう勘次《かんじ》の姿《すがた》は林《はやし》に見出《みいだ》された。
 主人《しゆじん》から與《あた》へられた穀物《こくもつ》は彼《かれ》の一|家《か》を暖《あたゝ》めた。彼《かれ》は近來《きんらい》にない心《こころ》の餘裕《よゆう》を感《かん》じた。然《しか》しさういふ僅《わづか》な彼《かれ》に幸《さいは》ひした事柄《ことがら》でも幾《いく》らか他人《たにん》の嫉妬《しつと》を招《まね》いた。他《た》の百姓《ひやくしやう》にも悶躁《もが》いて居《ゐ》る者《もの》は幾《いく》らもある。さういふ伴侶《なかま》の間《あひだ》には僅《わづか》に五|圓《ゑん》の金錢《かね》でもそれは懷《ふところ》に入《はひ》つたとなれば直《すぐ》に世間《せけん》の目《め》に立《た》つ。彼等《かれら》は幾《いく》らづゝでも自分《じぶん》の爲《ため》になることを見出《みいだ》さうといふことの外《ほか》に、目《め》を峙《そばた》てゝ周圍《しうゐ》に注意《ちうい》して居《ゐ》るのである。彼等《かれら》は他人《ひと》が自分《じぶん》と同等《どうとう》以下《いか》に苦《くるし》んで居《ゐ》ると思《おも》つて居《ゐ》る間《あひだ》は相互《さうご》に苦《くるし》んで居《ゐ》ることに一|種《しゆ》の安心《あんしん》を感《かん》ずるのである。然《しか》し其《そ》の一人《ひとり》でも懷《ふところ》のいゝのが目《め》につけば自分《じぶん》は後《あと》へ捨《す》てられたやうな酷《ひど》く切《せつ》ないやうな妙《めう》な心持《こゝろもち》になつて、そこに嫉妬《しつと》の念《ねん》が起《おこ》るのである。それだから彼等《かれら》は他《た》の蹉跌《つまづき》を見《み》ると其《その》僻《ひが》んだ心《こゝろ》の中《うち》に竊《ひそか》に痛快《つうくわい》を感《かん》ぜざるを得《え》ないのである。
 勘次《かんじ》の家《いへ》には薪《たきゞ》が山《やま》のやうに積《つ》まれてある。それが彼等《かれら》の伴侶《なかま》の注目《ちうもく》を惹《ひ》いた。それとはなしに數次《しばしば》彼《かれ》の主人《しゆじん》に告《つ》げられた。開墾地《かいこんち》で木《き》を焚《た》いた其《その》灰《はひ》をも家《いへ》に運《はこ》んだといふことまで主人《しゆじん》の耳《みゝ》に入《はひ》つた。勘次《かんじ》は開墾《かいこん》の手間賃《てまちん》を比較的《ひかくてき》餘計《よけい》に與《あた》へられる代《かは》りには櫟《くぬぎ》の根《ね》は一つも運《はこ》ばない筈《はず》であつた。彼等《かれ
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