と與吉《よきち》とを南《みなみ》の女房《にようばう》へ頼《たの》んだ。
「他《ほか》へは行《い》くんぢやねえぞ、えゝか、よきは泣《な》かさねえやうにしてんだぞ」彼《かれ》はおつぎへもいつて出《で》た。おつぎは其※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《そんな》注意《ちうい》を人前《ひとまへ》でされることがもう耻《はづ》かしく厭《いや》な心持《こゝろもち》がするやうに成《なつ》て居《ゐ》た。
 勘次《かんじ》は鬼怒川《きぬがは》の渡《わたし》を越《こ》えて土手《どて》を傳《つた》ひて、柄《え》のない唐鍬《たうぐは》を持《も》つて行《い》つた。鍛冶《かぢ》は其《そ》の時《とき》仕事《しごと》が支《つか》へて居《ゐ》たが、それでも恁《か》ういふ職業《しよくげふ》に缺《か》くべからざる道具《だうぐ》といふと何處《どこ》でもさういふ例《れい》の速《すみやか》に拵《こしら》へてくれた。
「隨分《ずゐぶん》荒《あれ》えことしたと見《め》えつけな、俺《お》らも近頃《ちかごろ》になつて此《こ》の位《くれ》えな唐鍬《たうぐは》滅多《めつた》打《ぶ》つたこたあねえよ、」鍛冶《かぢ》は赤《あか》く熱《ねつ》した其《そ》の唐鍬《たうぐは》を暫《しばら》く槌《つち》で叩《たゝ》いて、それから土中《どちう》へ据《す》ゑた桶《をけ》の泥《どろ》を溶《と》いたやうな水《みづ》へぢうと浸《ひた》して、更《さら》に又《また》小《ちひ》さな槌《つち》でちん/\と叩《たゝ》いて
「こんだこさ大丈夫《だいぢようぶ》だ、先《せん》にやどうして罅《ひゞ》なんぞいつたけかよ」鍛冶《かぢ》は汗《あせ》の額《ひたひ》を勘次《かんじ》に向《む》けて
「柄《え》が折《を》つちよれねえうちは動《いご》きつこねえから」といつて又《また》
「身體《からだ》の割《わり》にしちや圖《づ》無《ね》えな」と鍛冶《かぢ》は微笑《びせう》した。鐵《てつ》の臭《にほひ》のする唐鍬《たうぐは》を提《さ》げて勘次《かんじ》は復《また》土手《どて》を走《はし》つた。
 其《そ》の日《ひ》も西風《にしかぜ》が枯木《かれき》の林《はやし》から麥畑《むぎばたけ》からさうして鬼怒川《きぬがは》を渡《わた》つて吹《ふ》いた。鬼怒川《きぬがは》の水《みづ》は白《しろ》い波《なみ》が立《た》つて、遠《とほ》くからはそれが粟《あは》を生《しやう》じた肌《はだへ》のやうに只《たゞ》こそばゆく見《み》えた。西風《にしかぜ》は川《かは》に吹《ふ》き落《お》ちる時《とき》西岸《せいがん》の篠《しの》をざわ/\と撼《ゆる》がす。更《さら》に東岸《とうがん》の土手《どて》を傳《つた》うて吹《ふ》き上《あ》げる時《とき》、土手《どて》の短《みじか》い枯芝《かれしば》の葉《は》を一葉《ひとは》づゝ烈《はげ》しく靡《なび》けた。其《そ》の枯芝《かれしば》の間《あひだ》にどうしたものか氣《き》まぐれな蒲公英《たんぽ》の黄色《きいろ》な頭《あたま》がぽつ/\と見《み》える。どうかすると土手《どて》は靜《しづ》かで暖《あたゝ》かなことがあるので、遂《つひ》騙《だま》されて蒲公英《たんぽ》がまだ遠《とほ》い春《はる》を遲緩《もどか》しげに首《くび》を出《だ》して見《み》ては、また寒《さむ》く成《な》つたのに驚《おどろ》いて蹙《ちゞ》まつたやうな姿《すがた》である。
 勘次《かんじ》は唐鍬《たうぐは》を持《も》つて復《ま》た自分《じぶん》の活力《くわつりよく》を恢復《くわいふく》し得《え》たやうに、それから又《また》一|日《にち》仕事《しごと》を怠《おこた》れば身内《みうち》がみり/\して何《なん》だか知《し》らぬが其《そ》の仕事《しごと》に催促《さいそく》されて成《な》らぬやうな心持《こゝろもち》がした。
 鬼怒川《きぬがは》の水《みづ》は落《お》ちて此方《こちら》の土手《どて》から連《つらな》つて居《ゐ》る大《おほ》きな洲《す》が其《そ》の流《なが》れを西岸《せいがん》の篠《しの》の下《した》まで蹙《ちゞ》めて居《ゐ》る。廣《ひろ》く且《かつ》遠《とほ》い洲《す》には只《たゞ》西風《にしかぜ》が僅《わづか》に乾《かわ》いた砂《すな》をさら/\と掃《は》くやうにして吹《ふ》いて居《ゐ》る。それで白《しろ》く乾燥《かんさう》した洲《す》は只《たゞ》からりと清潔《せいけつ》に見《み》える。さういふ間《あひだ》にどうしたものか此《こ》れも氣《き》まぐれな人《ひと》が、遠《とほ》くは其《そ》の砂《すな》から生《は》えたやうに見《み》えてちらほらと散《ち》らばつて少《すこ》しづゝ動《うご》いて居《ゐ》る。勘次《かんじ》は土手《どて》からおりて見《み》た。動《うご》いて居《ゐ》る人々《ひと/″\》は萬能《まんのう》で其《そ》
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