有《あ》つた」おつぎは田圃《たんぼ》にある鼠麹草《はゝこぐさ》の花《はな》を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》つて筵《むしろ》へ載《のせ》て遣《や》つた。さうして又《また》危《あぶな》いやうにそうつと田《た》へおりた。與吉《よきち》は只《たゞ》鼠麹草《はゝこぐさ》の花《はな》を弄《いぢ》つて居《ゐ》た。
 堀《ほり》は雨《あめ》の後《あと》の水《みづ》を聚《あつ》めてさら/\と岸《きし》を浸《ひた》して行《ゆ》く。青《あを》く茂《しげ》つて傾《かたむ》いて居《ゐ》る川楊《かはやなぎ》の枝《えだ》が一つ水《みづ》について、流《なが》れ去《さ》る力《ちから》に輕《かる》く動《うご》かされて居《ゐ》る。水《みづ》は僅《わづか》に觸《ふ》れて居《ゐ》る其《その》枝《えだ》の爲《ため》に下流《かりう》へ放射線状《はうしやせんじやう》を描《ゑが》いて居《ゐ》る。蘆《あし》のやうで然《しか》も極《きは》めて細《ほそ》い可憐《かれん》なとだしばがびり/\と撼《ゆる》がされながら岸《きし》の水《みづ》に立《た》つて居《ゐ》る。お玉杓子《たまじやくし》が水《みづ》の勢《いきほ》ひに怺《こら》へられぬやうにしては、俄《にはか》に水《みづ》に浸《ひた》されて銀《ぎん》のやうに光《ひか》つて居《ゐ》る岸《きし》の草《くさ》の中《なか》に隱《かく》れやうとする。さうしては又《また》凡《すべ》ての幼《をさな》いものゝ特有《もちまへ》で凝然《ぢつ》として居《を》られなくて可憐《かれん》な尾《を》をひら/\と動《うご》かしながら、力《ちから》に餘《あま》る水《みづ》の勢《いきほひ》にぐつと持《も》ち去《さ》られつゝ泳《およ》いで居《ゐ》る。與吉《よきち》は鼠麹草《はゝこぐさ》の花《はな》を水《みづ》へ投《な》げた。花《はな》が上流《じやうりう》に向《む》いて落《お》ちると、ぐるりと下流《かりう》へ押《お》し向《む》けられてずんずんと運《はこ》ばれて行《ゆ》く。岸《きし》の草《くさ》の中《なか》に居《ゐ》た蛙《かはづ》は剽輕《へうきん》に其《その》花《はな》へ飛《と》び付《つ》いて、それからぐつと後《うしろ》の足《あし》で水《みづ》を掻《か》いて向《むかふ》の岸《きし》へ着《つ》いてふわりと浮《う》いた儘《まゝ》大《おほ》きな目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つてこちらを見《み》る。鼠麹草《はゝこぐさ》の花《はな》が皆《みな》投《な》げ竭《つく》されて與吉《よきち》は又《また》おつぎを喚《よ》んだ。
「おうい」とおつぎの情《じやう》を含《ふく》んだ聲《こゑ》が遠《とほ》くからいつた。おつぎの返辭《へんじ》を聞《き》いては與吉《よきち》は口癖《くちぐせ》のやうに姉《ねえ》よと喚《よ》ぶ。其《その》度《たび》毎《ごと》におつぎは忙《いそが》しい手《て》を動《うご》かしながらそれに應《おう》ずるのである。
 正午《ひる》にはまだ間《ま》があるうちに午餐《ひる》の支度《したく》を急《いそ》いでおつぎは田圃《たんぼ》から茶《ちや》を沸《わか》しにのぼる。與吉《よきち》は悦《よろこ》んでおつぎの背《せ》に噛《かぢ》りついた。勘次《かんじ》は後《あと》で獨《ひと》り耕《たがや》した。青《あを》い煙《けむり》が楢《なら》の木《き》から立《た》つて軈《やが》て
「沸《わ》いたぞう」とおつぎの聲《こゑ》で喚《よ》ばれるまでは勘次《かんじ》は忙《いそが》しい其《そ》の手《て》を止《と》めなかつた。
 午餐過《ひるすぎ》からおつぎは縫針《ぬひばり》へ絲《いと》を透《とほ》して竿《さを》へ附《つ》けて與吉《よきち》に持《も》たせた。與吉《よきち》は外《ほか》の子供《こども》のするやうに其《そ》の針《はり》を擧《あ》げて見《み》ては又《また》水《みづ》へ投《な》げて大人《おとな》しくして居《ゐ》る。暫《しばら》く時間《じかん》が經《た》つと又《また》姉《ねえ》ようと喚《よ》ぶ。おつぎは堀《ほり》の近《ちか》くへ耕《たがや》して來《き》た時《とき》に見《み》ると與吉《よきち》の竿《さを》は絲《いと》がとれて居《ゐ》た。おつぎは岸《きし》へ上《あが》つた。
「どうしたんでえ、よき[#「よき」に傍点]は」おつぎは見《み》ると針《はり》が向《むかふ》の岸《きし》から出《で》た低《ひく》い川楊《かはやなぎ》の枝《えだ》に纏《まつは》つて絲《いと》の端《はし》が水《みづ》について下流《かりう》へ向《む》いて居《ゐ》る。おつぎは二|町《ちやう》ばかり上流《じやうりう》の板橋《いたばし》を渡《わた》つて行《い》つて、漸《やうや》くのことで枝《えだ》を曲《ま》げて其《その》針《はり》をとつた。さうして又《また》與吉《よきち》の棒《ぼう》へ附《つ》けてやつた。

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