空際にも柱の如き雲が相応じて立った。文造は此の気象の激変に伴う現象を怖れた。彼は番小屋へ駆け込んで太十を喚んだ。太十は死んだようになって居る。
「北の方はひでえケイマクだ。おっつあん遁げたらよかねえか」
「うるせえな」
 太十は僅にこういった。彼は精神の疲労から迚ても動く気になれなかった。雲は地上に近く掩いかぶさってあたりが薄暮の如く闇くなった。頬白は塒を求めて慌ててさまよった。冷気を含んだ疾風がごうと蜀黍の葉をゆすって来た。遠く夕立の響が聞えて来た。文造は堪らなくなった。彼は鍬を担いで飛び出した。それと同時に屋根へ打ち込んだ鎌の切先が文造の額に触れた。はっと押えた時文造の手の平は赤くなった。犬の血に尋いで更に文造の血が番小屋に灑がれた。雨の大きな粒がまばらに蜀黍の葉を打って来た。霧の如く白雨の脚が軟弱な稲を蹴返し蹴返し迫って来た。田甫を渡って文造はひた走りに走った。夕立がどっと来た。黄褐色の濁水が滾々として押し流された。更に強く更に烈しく打ちつける雨が其氾濫せる水の上に無数の口を開かしめる。忙しく泡を飛ばして其無数の口が囁く。そうして更に無数の囁が騒然として空間に満ちる。電光が針金の如き白熱の一曲線を空際に閃かすと共に雷鳴は一大破壊の音響を齎して凡ての生物を震撼する。穹窿の如き蒼天は一大玻璃器である。熾烈な日光が之を熱して更に熱する時、冷却せる雨水の注射に因って、一大破裂を来たしたかと想う雷鳴は、ぱりぱりと乾燥した音響を無辺際に伝いて、軈て其玻璃器の大破片が落下したかと思われる音響が、ずしんと大地をゆるがして更にどろどろと遠く消散する。雨は飛散する玻璃の粉末の如く空間に漲って電光に輝く。熾烈な日光が更に其大玻璃器の破れ目に煌くかと想う白熱の電光が止まず閃いて、雷は鳴りに鳴って雨は降りに降った。そうしてからりと晴れた時、日はまだ西の山の上に休んで閉塞し困憊せる地上の総てを笑って居た。文造が畑に来た時いつも遠くから見えた番小屋の屋根はなかった。小屋は焼けて居た。四本の柱は焦げた儘地に立って居た。其他は灰になって湿って居た。家族のものが駈けつけて夕日の光に灰を掻き分けた時、仰向になった儘爛れた太十の姿を発見した。有繋に雷鳴を恐れたと見えて両手は耳を掩うて居た。屋根の裏に白い牙をむいた鎌が或は電気を誘うたのであったろうか、小屋は雷火に焼けたのである。小屋に火の附いた時はもう太十は何等の苦痛もなく死んで居た筈である。たった一人野らに居た一剋者の太十はこうして僅かの間に彼の精神力は消耗した。更に大自然の威力は気象の激変を駆って眇たる彼の恐怖心に強烈な圧迫を加えた。同時に其単純な生涯から葬り去った。犬の毛皮を貼った板は俯向に倒れて居た。そうして板の裏が僅かに焦げて居た。
[#地より2字上がり](1910年2月「ホトトギス」)



底本:「日本プロレタリア文学大系(序)」三一書房
   1955(昭和30)年3月31日初版発行
   1961(昭和36)年6月20日第2刷
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年11月30日公開
青空文庫ファイル:
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