。そんな心持からさつき女の荷物も態々とつてやつた譯で彷徨つて居た二ヶ月前の彼とは全く異つて居た。今此の極月の末といふに開店して初荷の賣出しを樂まうといふ手筈で店の方は大抵極りもついたし、彼は此を老いたる父母に告げようとして一先づ其家へ歸りつゝあるのである。
彼はかういふ寒い日に麻の財布を肩にして草鞋穿で掛取に歩かせられたことが數次である。さうして兎に角縁のすれた小倉の角帶へ紺の前垂の紐を結んでぽんとそこを手の平で叩いた時はどう見ても番頭とより外見えぬ丈に其習慣は商人らしい姿に成つて居るのである。隨つて彼の頭は分時も商業を去らないのであるが何といつても年は若いし嘗て自分が主になつて營業したことがないので今一軒の店を持つと成ると身に餘るやうな心持にもなるし、熾な希望と共に何處かに不安の念が蟠つて時には非常な取越苦勞もすることがある。比較的どつしりとはして居ても心の内はそわ/\と落付かないやうで近來は新聞を讀んで居ても酷く身にしみないといふやうな状態で絶えず心の底からむか/\と或物が込み上げて來るやうに感じて居る。顧客はどうしてつくるといふ胸算はあるけれども一人でもまだ定まつては居ない。大きな店の主人に成ることではあるが眞實まだ本當の商人には資格が備らぬ樣な氣もして成らぬのである。然しながら彼の希望は彼の精神を作興し彼を活かしたことは事實である。洋々たる前途を思ふ時彼は何時も身體に力がはひつてぶる/\つと震へる樣に感ずるのである。彼はかうした責任の重い身を水戸から汽車に搖られて來た。さうして野中の道を又馬車に揉まれつゝ行くのである。馬車は停車場からすぐに遠く開けた田甫へ出て南へ走る。刈田を渡る西風は依然として強く、垂れたズツクを飜して吹く。田甫が盡きて小さな坂一つ上れば麥畑へ出る。乾燥した麥畑は埃で霧が立つたやうである。とある村で馬車はとまる。馭者はかじけた手で柄杓の柄を握つて馬の口をしめす。立場の婆さんが煙草の火とそれから九人前の茶を出す。一番端に居る女は盆を受取つて
「さあ皆さんどうです」
盆を先へ廻さうとする。
「まあどうぞさうして」
「どうもあなたの手からの方が甘いやうですから」
抔と例の工夫は戲談を止めない。女はまた左の手に盆を持つた儘敷島に火を點けた。茶碗がみんな盆へもどつて五厘の銅貨が一つ宛茶碗の底にはひつた時女は帶の間から二錢の銅貨を出してぽんと盆へ
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