降りた。頭はまたすぐに商賣のことが一杯に成つて自分の家へ志した。破れた垣根を見た時には彼は兩眼に涙を催した。さうして一層其心を興奮させた。
強い西風は夕の空を一杯に染めて止んでしまつた。彼は夜深まで靜かな室内に火鉢を擁して老いたる父母の爲に概況を語つた。彼の母は前途を危ぶんでこま/″\と注意を與へた。うつかり呑口をもとからひつこ拔いて酒でもこぼさない樣にといふことまでいつて父と彼とを笑はせた。彼は噺の序に異樣に彼の記憶に殘つた馬車中の女のことを語つた。彼の父は其一端を聞いて想像が出來た。狹い町には此の女の評判は行き渡つて居たのである。その女は町の者で非常なあばずれである。一旦婿をとつたが到頭いやだ/\で通してしまつた。女の家の財産と一皮むけた女の縹緻とは婿の心を強く牽いたのであるが女の我儘には父と雖手がつけられないで遂に離縁といふことに成つてしまつた。女の父は婿の去つた時家の金箱を失つたといつて嘆息した。そんな風で後に東京へ飛び出して勝手に電話の交換局かなどへはひつて遂に有勝な男との失策をして病氣に成つて家へ歸つて來た。療治をして居る間は青褪めた顏をして有繋に悄れ切つて居た。さうすると父も可哀想に成つて本氣に勵まして醫者に通はせた。二ヶ月計で頬には段々紅がさして來てまた以前の身體に成つた。さうすると何時の間にか化粧の仕方を氣にするやうに成つて隣づかりで居た小學校の教員と怪しい仲になつた。それから到頭一緒に遁げて教員の出た水戸の地へ落ちついたのである。父の家業が穀屋であるので此度は辛棒出來るからと父へ泣きついて幾らかの資本を貢いでもらつて小さながらも水戸で穀屋の店を開いて居る。教員といふのは猫のやうな男なのに女は反對の勝氣な性質ではあるし自分が資本を拵へたといふので世帶のことは一切女の切り盛りであるとかいふのであつた。彼は合點が行つた。それと同時に自分が此度開業したら直ぐ手拭の一本も持つて行つて醤油の一樽も買はしてやらなければならぬとかういふ考がふと胸に浮んだ。さうして其瞬間に今まで動搖して居た心が楔子を打ち込んだやうにきつとした。斧の刄から飛ぶ木材の一片が地上に落ちて居たとて何人の注意をも惹かないであらう。然しながら其一片と雖此を楔子に削る時大厦の柱をも堅固にすることが出來る。今彼の胸に浮んだ考は餘りに普通でさうして又餘りに陳腐であつた。けれどもそれが彼の現在に於
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