。それでも向うの埒の内の見物人は極めておとなしく立つて居る。其なかに年増の主婦さんらしいのが一人居る。最初から極めてつゝましく立つて居る。室内の騷々しさをすぐ眼前に見て微笑することも無くつゝましくして居たのである。尤も此の主婦さんの身にとつたならば埒の内に立ち盡して居ることが多勢の前に曝されて居るやうな心持であるかも知れぬ。余は其つゝましい主婦さんと、其頭の上に縺れて居る柳の枝とを見守つた。余が坐に就いてから時計を見ると三時間も過ぎ去つた。三度目の拍子木が近く響いた。もうすぐだと手代らしいのが囁いた。表の勾欄の左の端にすつと人物が現れた。此の廓の藝子といふのが七八人、紅白の綱で、造花の山のやうに盛つた花籠の車を曳いて來たのである。極めて徐ろに足を運ぶ。花籠は表の勾欄の上を微動しながら過ぎて行く。此が先驅であつた。間が暫く途切れる。勾欄の外れへ小さな禿が二人ならんで現れた。態とらしい化粧と懷手をして左の肘を張つて足もと危く然かも勿體らしく歩を運ぶ處とは滑稽で又可憐である。禿が座敷の前へ來ると、勾欄の端に太夫の姿が現れた。前で結んで兩方へ張つた錦襴の大きな帶と、刺繍の裲襠とが目を射る。萠黄の法被を着た老人が後から長柄の傘をさし挂けて居る。傘には太夫の定紋が大きく描かれてある。傘の下には極端に裝飾された太夫の首が造り付けられた樣に前面を正視して居る。思ひ切つて大きく結うた髮には鼈甲の大きな簪が十七本、下へ向け上へ向け左右から刺されてある。丁度熊手のやうであるといへばそれが却て適當した形容であるかも知れぬ。厚化粧は盛り上げの如くである。目は威嚴を保たうとする如く寸毫も他に轉ぜぬ。此も懷手をした左の手が肘を張つて居ると見えて左の袂が突つ張つて居る。右の手は結んだ帶の下へ隱してある。裾はきりつと吊り上げてある。裾からは赤い長襦袢が踵を覆うて垂れて居る。余は立膝をして太夫の足もとを見た。太夫は長襦袢の裾から墨塗の大きな下駄を蹴出す。からりと外から大きく地をすつて立てた足の爪先へ斜に据ゑる。暫く過ぎて眞直に向け直す。又暫く間を置いて別の足を蹴出す。八文字を踏むといふのは此だと余は心に合點した。下駄は二個所斜に鋸を入れてあるので丁度三枚の齒があるやうに見える。手絡にするやうな赤い切の緒で、そこに小さな白い足が乘せてある。蹴出す度に赤い裾から白い足の爪先が三四寸見える。足には足袋を穿い
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