あさつて居る、土中に在つて鳴くかと思ふやうな微かな蛙の聲が聞える、
山と山との間から僅に露はれた頂には雪が眞白である、二三日此方降つたものであらう、田の向うには周圍が皆燒山で只一つ芝も燒けず常緑木の僅にしげつた小山がある、獵師はそこを指して語り出した、
「あすこで秋から兎を十六七も打つたんですが夫れでまだ七八つも居るんです、周りがあの通りですから遊び廻つちやあ、あすこへ來ると見えるんです、兎といふ奴は馬鹿な奴で追ひ廻はされると、しめえにや元の所へ來つちまふんですから根氣よく追つ掛けりやあ屹度捉へられるやうなもんです、夫れでも又能のあつたもので、犬が追つて行つて今一息といふ所になるとひらつと脇へ開く所がどうでしよう、それを二度もやられると犬は飽れて追はねえんですがね、
「さういふものですかね、此間は茶圃に兎が眠つて居たといふと、丁度法事の時なものですから若い衆が三四十人で取卷いてとう/\魚扠《やす》で突つ殺してしまひました、全體ことしは兎が居るやうですな、
獵師は物をいふ度に揃つた長い眞白な齒を剥き出す、坂を少し下る、十八九の娘が馬を曳いてのぼつて來た、米桃のやうな頬の赤い肉つきのいゝ娘である、襷がけの草鞋拵へで、荷鞍には二升樽位の大さの夫れよりは稍長い古ぼけた樽が兩方に一つ宛つけてあつた、行き違ひに手綱をしごいて、左の手で馬の轡をとつてむつとした顏で過ぎ去つた、
目の下には大北川の流が奔つて居る、對岸に少しの平地があつて、水の流がその平地を蹄の形にめぐつて居る、古い小屋のやうなものがところ/″\に見える、炭竈の趾である、樹木は大抵伐採されて、櫟であらうか人の立つて居るやうな木の株がぼつり/\殘つて居る、凄凉たるさまである、
流のほとりまで下る、鼻を突くやうな向ひの山は悉く落葉木であるから狹いにしてはあたりがからつとして居る、萱のなかに馬が一匹じつとして立つて居る、
「あれは私が放して置くんですが、舊正月の二日からうつちやつてあるんです、子が止まつてから三月四月になりましよう、奇態なことにあの馬は生れながら後足が三寸ばかり短いのでとても役に立たねえのです、腰越あたりの奴等はそこらの馬を捉へちや萱を背負はしたとか、代を掻かしたとかいふんですがあの馬ばかりは手をつけません、自分でまた體が不自由なものですから決して遠くへ行かねえんです、えゝなに、食ひ物さへありやどの馬でもそこに居るもんですがね、
獵師の話は嘗て自らした伯樂のことに移る、路の傍には二抱三抱の楢の樹が聳えて、下には山吹が簇つて青い枝が交叉して居る、
小さな坂を幾つか越したり、駒除のそばを過ぎたりして再び大北川の流に達した、橋がある、こつちに石を積んで、向うにも石を積んで、大きな杉の板が二枚ならべて水面に近く架け渡してある、水には夥しく鋸屑が交つて流れる、橋を渡ると杉の五分板をつけた馬が五六匹揃つて來た、河原礫の上に立つて暫く馬を避けた、岸へ上ると山桑の老木がならんで居て、老木の下の枯芝には火が二坪ばかり燃え廣がつて居る、馬士供の板面である、
段々行くとシユウツ/\といふ音が聞える、水車小屋の中から響くのである、小屋へはいつて見た、機械で木材を挽くのである、外で大きな水車が廻轉すると、小屋の中の齒車がめぐる、他の車がめぐる、車から車へかけた袈裟のやうな象皮は中央の丸い鋸をめぐす、人が鋸をさし挾んで居る、鋸の傍には四角な柱が建てゝある、榾を鋸へあて、こちらから押す、さきで取る、瞬く間に一枚挽ける又挽ける、榾はいつでも柱へ密接せしめてあるので板は常に柱と鋸との間だけの厚さに出來る、榾一つ挽くのが烟草二三服の暇である、
水車の脇から又のぼる、坂の上から見ると小屋の外には挽きあげた板が又字なりに組みならべたのが一面に白く見える、ずん/\登る、南京米の袋で縫つた衣物に荒繩をぐる/\卷きにした老爺が榾を背負つて來た、小村が目の前に表はれた、才丸である、
遙かあなたには焦げたやうな一脈の禿山がつゞいて居る、山のこなたは左右の山と山との間がひろ/″\として居る、狹い間ばかり見て來た目には殊に心持がよく感ぜられた、一縷の烟も立たない三四十の萱葺の丈夫相に見える家が一つ所に聚つて居る、産土の森のやうなものも見える、周圍の平らみは皆田である、田には高低が無いやうで、馬が十匹ばかり放してある、どの馬も下を向いて頻りになにかあさつて居るやうである、孰れを見ても閑寂な沈んだ趣である、
禿山の頂近くには一筋の土手のやうなものが仄かに見える、「山は磐城の國境で山の陰には杉の木が一杯に植ゑつけてある、幅一間の堀を穿つて土手を築いて才丸あたりの馬が入り込まない用心をして居る、茲から見えるのが其土手であると獵師がいつた、
「此迄は丸であの山へ出たもんです、行きますともあれからぢやあずつと先ま
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