こは》ばつて居る。草鞋の代が幾らかと聞いたら此は一足進上するのであるから代は要らぬといふことであつた。女は又赤泊の街道へ出る處まで教へてくれるといふので二三町余と共に跟いて來た。電信柱から左へ曲ると此からは一筋道で赤泊より外には何處へも行きやうはないからどうぞゆつくりお越しなされと辭儀をする。余は此時もしみ/″\美人だと心に深く思ひながら女の姿を見た。
 街道は磯へ出る。薄霧の中に越後の彌彦山が眞向に見えてそれから南へ下つて稍遠く米山が見える。共に大きな島の如くに聳えて居る。海は極めて平らな※[#「さんずい+和」、第4水準2−78−64]である。沖の岩のめぐりに纔に動く波が日光を受けて金の輪を嵌めたやうにきら/\と光る。汀に近い蕎麥畑には蕎麥の花が眞白に咲き滿ちて居る。さら/\と輕くさし引く波が其赤い莖のもとへ刺し込んでは來ないかと思ふ程汀に近い畑である。

      三 南瓜

 街道は小山の間に入る。羽茂川に添うて行くと少しばかりの青田があつて青田へは小さな瀧が落ち込んで居る。瀧の側からは杉の大木が聳えて其杉の木には蝋が流れたやうに藤の實の莢が夥しく垂れて居る。丁度そこへ來かゝつた老人が頻りに合掌して其瀧を拜んで居る。余は此老人に大崎はまだ遠いかと聞いたらウン此かこれは御來迎の瀧だといつた。老人は耳が遠いのである。大崎の博勞の家はまだ遠いのかと大きな聲でいつたら老人はにこ/\笑ひながら此から少し先へ行けば大崎になる。牛でも買に來たか、まだ二十にはなるまい、能う來たのうといひ捨てゝ去つた。羽茂川に添うたまゝ街道は狹い峽間になる。路傍に大桶へ箍を打つて居る桶屋があつたので聞いて見ると博勞の家ならば後へ戻つて坂の上の高い所に見えるのがさうだといつた。桶屋のいふまゝに戻つて見ると住み捨てた大きな草家の側に坂がある。坂をのぼり切ると二本の梨の木が兩方からすつと空へ延びて其梨の木には梯子が掛つて居る。梨の青い葉がばら/\と散らばつて居る。博勞は丁度日に近い縁側に足を投げ出して梨を噛つて居る所であつた。余の姿を見ると能う來たのうと例の大口を開いて反齒を剥き出しながら驚いたといつたやうな顏をしていつた。彼と夷の港の宿屋で別れたのは四日前である。別れる時に若し自分の土地へ通りかゝつたならば立ち寄つてくれと彼はいつた。余は屹度と誓つた。彼は其後毎日他出をするのであるからあとへかういふ人が來たなら瀧へ案内をして返せといひ置いては出たのだといつて獨で悦んで居る。縁に腰を懸けて庭を見ると一枚の筵につやゝかな著我の葉をならべて其上に赤く染めた糸が二括りばかり干してある。筵の先には亂雜に手を建てた隱元《いんげん》が下葉は黄色に枯れて莢はまだなつて居る。博勞は板の間に※[#「蓙」の左側の「人」に代えて「口」、363−13]を敷いて「赤泊は俺が案内してあげる。赤泊の宿屋のとつゝあんは能う物を知つて仰山話が好きだ。丁度赤泊へは越後の仲間が牛買に來て明日あたりは歸るといつて居たから俺が話をして其船へ乘せてあげる。まあゆつくり休息して行けといふので兎にも角にも草鞋をとつてあがる。部屋のうちは仕事衣やら穢い着物が亂雜に引つ掛けてある。天井からは煤が垂れて居る。其煤の天井から吊つてある※[#「竹/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]棚も漆で塗つたやうである。其棚には蝮蛇の皮を剥いて干したのが竹串に立てゝある。此部屋で白いものは此の蝮蛇の串ばかりである。今とつた梨だといつて博勞が籃のまゝ余が前に梨を薦める。自分はさつきの噛りかけを一寸手でこすつて皮の儘むしや/\と噛りつゞける。余は拇指の爪が非常に延びて居たので其爪の先でぽつり/\と皮をむいて見た。鋲の頭のやうな小粒が一つ/\板の間へ落ちる。博勞は氣の長いことをするのうと見て居たがアヽ庖丁を出すのであつたと此時漸く穢げな庖丁を手でこすりながら出して呉れた。梨はがり/\と石のやうな梨であつた。博勞の娘らしい十三四の子が裏戸から南瓜を抱へてはひつて來た。博勞はあゝ丁度いゝ處だ生憎婆さんが居ないからと自ら立つて爐へ榾を焚きつける。爐は余が居る板の間に近く一段低く造つてある。娘は默つて南瓜を切りはじめる。堅い南瓜は小さな手の力では容易に刄が立たぬ。布巾で庖丁の脊を押したら漸く二つに割れた。娘は自在鍵を一尺ばかり下げて鍋を懸ける。黄色に刻んだ南瓜が鍋一杯に堆くなつて葢はぬれた儘南瓜の上に乘せてある。焔は鍋の尻から四方に別れて鍋蔓の高さまで燃えあがる。遙かなる地の底からでも出るやうな微かな湯氣が黄色な南瓜の中から騰りはじめる。鍋は沸々として煮立つと突き上げられて居た蓋が自ら鍋と平らにさがる。娘は榾の先を長い火箸で突つ崩して榾を先へ出したら焔が一しきり燃えあがつた。娘は小さな躰へ小さな筒袖を着て突き膝をして居る。赤い襟から白い可愛らしい顏を出して居る。此が博勞の娘かと思ふ程可愛らしい子である。火箸を持つた手を見ると指の先が赤く染つて居る。鍋は更に沸々として汁のとばしりが四方に飛ぶ。余は南瓜が佳味《うま》さうだといつたらこんなものが好なのだらうかと不審相に娘がいつた。不味いものが好なら佐渡の婿になつて十日も居るがいゝと博勞は大きな口を開いて笑ひながらいつた。榾の煙が靡いたので娘は長い火箸へ手を掛けたまゝ笑つてる目をしがめて遙か後ろへ斜めに身を反らした。

      四 牛の荷鞍

 博勞に跟いて小山を辿る。素足に草鞋を穿いた博勞の踵には赤く腫物が出來て居てぽつちりと白く膿を持つて居る。其腫物を見ながら跟いて行く。博勞は此日も向う鉢卷である。夷の港へ渡る汽船の甲板でも遂に此鉢卷はとらなかつた。博勞の立ち止つた所から下に深い谷が開けた。遙かに木立の繁茂した間から一括りの白糸を又幾つかに裂いて懸けた位な瀑が見える。瀑は隨分の長さのやうであるが上部も下部も枝に遮られて見えぬ。此が博勞自慢の白岩尾の瀑である。博勞は瀑壺まで行く氣があるかと聞くので余は是非共行つて見たいものだといふと彼はすぐに蕎麥の花を掻き分けておりはじめた。蕎麥の畑は頗る急斜面で曲りくねつておりなければ足の踏み處がしつかとしない。谷へおりると水を渉つて行く。水流は至つて狹い。石があれば石から石を跳ねて行く。水の深い所は岸の芒の根へ草鞋を踏んがけて行く。芒の根は草鞋が辷る。博勞の辷つたあとは更に辷る。其辷つた時には薊でも芒でも攫んで躰を支へねばならぬ。佐渡貉といふ位で此邊にはむじなの穴が仰山あつたものだがみんな獵師が打つてしまつて今では一つも居なくなつたと博勞が獨言のやうにいひながら行く。漸く瀑の下まで行きついた。仰いで見るとこゝではさつき木の枝で遮られた下の部分だけが見えるのであとはちつとも分らぬ。惜しいことには水が足らぬといふと雪解の頃ならさつきの處から見るのに水は多し木の葉はなしそれは立派なものだと博勞は辯解する。荊棘の間をもとへもどる。躰を屈めると荷物がぶらつと胸へさがつて蓙が前へこける。からげた尻へは岩打つしぶきが冷々とかゝる。博勞は別な方向をとつて芒の中をのぼる。手で押し分けた芒は足で二足三足踏みつけて進む。余は芒が再び閉ぢないうちと博勞の後へくつついて行く。うつかりすると博勞の蓙で目をこすられる。漸く小徑へ出た時には余の指からは血が少しにじんで居た。小さな水田のある所へ出た。小山の上であるから水田といつても籾の筵を五六枚干した位しかない。荷物は其田の畦へ捨てゝ博勞の導く儘に木に縋り乍ら行くと瀑の落口へ出た。瀑は此の田の傍を走る巾二尺ばかりの流の水である。大きなしなの木が瀑の上から谷へかけて斜めにさし出て居る。小柄な博勞は猿の如くすら/\としなの木の梢にのぼつた。余もつゞいて登つて見た。二人の重量で梢はゆさ/\と搖れる。足のうらは直に深い谷で恰も宙に乘つたやうな感じである。此の深い谷の向の瀑に相對した處はさつき瀑へおりた山腹でびつしりと蕎麥の花がさいて居る。一帶に山々は蕎麥でなければ豆が作つてある。然らざれば茫々たる芒である。博勞のいふ所によると「山を墾《は》り倒いて置いて枯れた所で火を點けてそこへ蕎麥でも豆でもばらつと撒いておくのだといふことである。さう思へば蕎麥の花の中には焦げた木が所々立つて居る。宙に乘つて見おろす瀑は上部の僅かゞ見えるだけである。此の瀑は孰れにしても厄介な瀑であるといはねばならぬ。瀑を後にして行くとすぐに小さな池がある。池には太藺が茂つて其下には盥を伏せた位な小さな島の形がある。此島といふのは由來のある島なので此小さな島から不思議にも清水が湧いて出るがいくら旱でも此の水だけは決して乾かぬと博勞がいつた。更に博勞が語る。此の池のほどりで一人の山伏が咒文を唱へて居たことがあつた。其時丁度牛を曳いて草刈に來て居た子供等が其咒文を聞いて居たことであつたが山伏が去つてから牛の荷鞍を卸して其荷鞍を叩きながら山伏の眞似をして呶鳴つて居ると荷鞍が草の上から踊り出して其儘水中で島に化してしまつたといふ其荷鞍の島はこれである。
 五位鷺が一羽おりて太藺の蔭にぢつとして居る。折柄俄雨が一方から水面を騷がしてさあつと降つて來た。鷺がすうつと飛び出して岸から垂れた小枝へ移つた。雨の脚が過ぎると水面は復た一方から靜かになる。汀には木の葉の滴りが水に大きな輪を描いて水馬が小さな輪を描いて居る。

      五 漁村の能

 俄雨のあとの草にはきら/\と日の光がさす。兩方から小徑を埋めて傾いた芒の穗を蓙ですつて行く。博勞の跳ね返した穗が時々ひやりと頬へあたる。だん/\小山の頂を行くと芒の穗の上に海洋が表はれてやがて一目に見えるやうになつた。海洋は日光のさし加減と見えて只紺碧である。あなたには彌彦山が皺一つ/\も數へることが出來る程近く見えて其後ろに連亘して居る越後の山々も今日は明かである。余等が歩いて居る小山の裾に迫つて三角形の眞白な帆を掛けた船が一つ徐ろに其紺碧の水を辷つて走る。白帆も日光のさし加減と見えて眩きばかりかゞやく、博勞は明日も日和だといつた。芒の穗を分けながら山をおりる。海が一歩づゝ狹くなつて木立のあなたに全く見えなくなつた時に僅かばかり水田のある所へ出た。博勞は突然あゝ能があるといひながら駈け出した。余は合點が行かなかつたが一所に駈け出した。田に添うて茂つた深い木立に入らうとした時に余の耳に幽かな笛の音が聞えた。木立に入ると大きな寺がある。本堂の廊下には人が一杯になつて見える。沓脱の左右には婆さん達が小さな店を出して通草《あけび》や菓子を並べて置く。平内さん能う來たがもう二番濟んだと其の内の一人の婆さんが博勞を見掛けていつた。アヽさうかと博勞は口癖の大聲を出して俺が赤泊へお客さんを案内して來たといひながら素足の草鞋をとる。余もごた/\と一杯に轉がつて居る下駄の間に足を踏ン込んで草鞋の紐を解く。兩掛の荷物を手に提げて段を昇らうとして見ると立ち塞つた人の頭の上に紙が貼りつけてある。番組と書いてあつて三番目には三井寺とある。博勞は荷物をこゝへ頼むがよいといつて余の荷物をとつて自分の草鞋と余の草鞋とを一つに括つて婆さんに渡した。ぎつしりと詰つた人の後に二人は漸くに立つた。見ると此の本堂といふのは新築したばかりでまだ壁の上塗もしてない。中央の板の間を殘して左右はそこにも人がびつしりと坐つて居る。廊下も前の人は皆坐つて居る。女や子供も交つて居るが膝へ抱かれた子供迄が大人しくして居る。正面には白の幔幕が張りつめてあつてチヨン髷結つた七十以上と見えるひよろ/\した老人と若者とが麻裃をつけて端然として居る。鼓が足もとに置いてある。幔幕の際には此外坐つて居るのが四五人ある。板の間のこちらの隅には青竹を折り曲げて櫓の形に組んだものが立つて居て小さな釣鐘の形が下つて居る。釣鐘からは長い紐が板の間へ垂れて居る。本堂のうちは此丈である。軈て老人が鼓を膝へとると若者は鼓を左の肩へとる。赤い紐がだらつと老人の膝からさがる。老人は笹の葉を押し揉んだやうな掛聲をしぼり出して右の手を徐ろに一杯に擧げて打おろすと鼓はパチツといふ音がする。若者は太い聲を掛けて斜に打あげる
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