ことを符貼交りに云うて平内さんが相手の袂へ手を入れて二人で握り合うたと思つたら平内さんは其癖の大聲を出してそりやあんまり安く買つたなあといひながら口を鉗んで向鉢卷した頭を横に曲げた。又鼓が鳴つて船辨慶がはじまつた。板の間に居る辨慶と幔幕がまくれて出た靜とが悠長に應答をする。辨慶は八字に髭のある大柄な男で時々瞼をぱち/\と叩く。靜が板の間の中央に蹲ると後ろの幔幕の際に居た男が金烏帽子をかぶせた。其男がどうも見たことのある顏だと思つたら此れは小木の宿屋の主人であつた。袴をつけて端然たる姿が餘り變つたので一寸見には分らなかつたのである。余は此の博勞に話すとアヽ鉢の木の仕手を舞うたのがさうだ。どうも能う舞ふといつた。烏帽子をつけた靜が白い足袋の先をそつと出し/\舞ひめぐる。四隅に吊つたランプの光が烏帽子に輝き衣裝に輝いて美しい。「アレは小木の石屋でワキなら何でも務めるのだと博勞が語る。靜が去つて知盛の幽靈が薙刀を振り廻して出た。薙刀は時々ランプを叩き相になる。其度毎に薙刀の刃がぴか/\と光る。能く見ると銀紙が貼つてあるので處々皺がよつて居る。長い髮をかぶつて伏目に荒れ廻る知盛の顎は赤い布で包んである。辨慶が頻りに珠數を押し揉んでは押し揉む。博勞は此時突然「此辨慶珠數の房を振るすべ知らんと叫んだ。余は辨慶に聞えはせぬかと心配した。板の間近く膝に抱かれて居た子供が薙刀に驚いたはづみに持つて居た梨を落した。梨はころころと板の間の中央まで轉つて行つた。外はまだ黄昏である。婆さん達の店が片づけにかゝつて居る。余は先程婆さんの箱の中に椿の葉へ乘せた米饅頭のあつたのを見ておいたのでそれを一包買つてやつた。婆さんは此れは椿ダンゴといふのだといつた。草鞋も足袋も手に提げたまゝ博勞に宿へ案内されて行く。本堂の庭から石段をおりる。途々聞くと佐渡には二派の能の先生があつた。此の博勞の平内さんも若い時分には先生に跟いて歩いたことがある。其後平内さんの先生の方は衰微してしまつて今日の一味だけが立派に立つて居る。然し平内さんの先生には名作の翁の假面が秘藏してあつた。百兩の値打はあると一口にいつて居たのであるが五六年前の洪水で家も藏も流されて其假面も一所に失つてしまつた。それは海へ落ちたのであつたと見えて後に磯へ打ちあげられたのを漁夫が拾つたけれど其時には鼻も缺けて元の姿はちつともなかつたといふのである。
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