打ち下した錘が竹刀のほとりに止まつたかと思ふうちに竹刀はぎり/\と卷かれた、もうどうにも手が出まいと見て居ると、いきなり自分の竹刀を捨てゝかたへに落ちてあつた竹刀を拾ひ上げて更に立ち向つた、鎖鎌の地位は不利益になつた一旦からんだものは容易にとれるのでないから鎌のさきには竹刀がぶら下つて居るので自由の働きが出來ない、竹刀の方はその虚につけ入つて奇捷を獲[#「獲」に「ママ」の注記]やうとする、仕方なしに左に持つた木劍で敵の打撃を防ぎながら神戸はぐる/\と場中をめぐつて居るうちつひに狡猾なる相手は竹刀を奮[#「奮」に「ママ」の注記]はれた、時にとつて非常の可笑しさであつたので、見物人は一向に時の移るのも知らずに笑つて見て居るのである、王將が首を撥かれたのでこの勝負は一先つ切り上げて飛入の劍士との仕合があるからしばらく休息といふので、見物人は肩の凝りが解けるといふよりは珍らしい勝負の話に餘念もないありさまである、
「あの鎖鎌を持つたのがこゝではまあ上手なんだ相ですな、
「いやどうもあの挾むのは妙ですな、あれでやられた日にやたまりませんな、だがあの男はからだ中がほり物だらけだ相ですね、なんのためですか知れませんが、
などゝ話をして居る、土間では「鮓よしか「煎餅よしかと商人が人込を分けて歩行いて居る、飛入劍士は各仕度に取り掛つて居る、興行仲間の一人が飛入の席へ再三往復した後白革の胴をつけたまゝ上に羽織をかけた神戸なにがしが、軍扇となにやら書いた紙とを持つて出た拍子木の音と共に場内はひつそりとした、行司の神戸は紙に書いたのを見て兩方に別れて扣へて居る劍士の姓名を呼び揚げる、飛入の劍士は背丈の延びた男で稽古着から袴から紺づくめの竹刀は短くつて而かも太いのを持つて、のつさ/\と中央へ出た、相手になるのは小柄な弱々した若物[#「物」に「ママ」の注記]なのでこの仕合は既に危げに見えた、小柄な方も思つたよりは活溌に立ち合つたが紺づくめの鋭い打込みかたはまた格別である、竹刀の柄をねぢるやうにしたかと見ると「お面と飛込んで行く、飛び込んでは暫く鍔元の押合をしては離際に酷い力で横なぐりをしたが雙方の丈があまり違つたので僅に頭上を掠めただけであつた、凄い勢でまた飛び込んだ、さうして振り冠つて三つ四つ打ち下ろした、若物もさすがに受けには受けたが強力の竹刀は障害のあるにも拘らず相手の頭上を手痛く打ち据ゑるのである、尤もこれは勝負のうちには入らない、さうしてはまた離際に横なぐりに掻つ拂つた、「いやだよ/\、横面はもうまゐりませんぞ、どつこいそんなことではいけませんぞと相手の若者の用心は深くなつた、「無念流だからその積りでなくつちやいけない、どうもこれは取組が丸で違つた、なんと云つてもまだ十八にしかなりませんからなどと行司は獨言を言つて見て居る、行司とは隔つた莚の上に角力ならば年寄といふ格で坐つて居る六尺もあらうかと思ふ長大な老人が微笑を含んで注視して居る、紺づくめの攻撃はちとも衰へない、打ち据ゑ/\突き入るので若物[#「物」に「ママ」の注記]は逃足だつて埒に添ふてぐる/\めぐりはじめた、がつし/\と振冠つては竹刀を打下ろすのであるから見物人の目からも胴のあたりの隙が見られるのであるが、打ち下す力の凄いために隙だらけの胴に切り込むことが出來ないので竹刀の方は防ぎ一方に逃げまはつて居る、見物人は拍手をしなからわつわと笑ひこける、行司はつと立つて竹刀の中へ割込んだが「この勝負は行司預りおきますと引き分けてしまつた、「うまいぞ行司いゝとこだと叫んだのはさつきの男である、次に現はれたのは飛入の方では六十ばかりの老人であるが相手に立つたのは二十八九にもなるかと思はれる女で水髮をしつかと結んだ小麥肌の、女としてはづば拔けて脊の延びたのであつた、「この女でしやう薙刀つかひといふなァ「向ふの爺さん警察の小使ですがね、もとは目録以上の撃劍家なんですが、どうですか年が年ですからと見物人は老人を危ぶんだ、行司は「白濱きく女と薙刀つかひを呼び揚げる、同じく老人の名も呼び揚げるとしづかに立つて相向つた、老人はもう充分に構へた、行司も軍扇を引くばかりにして待つてる、薙刀つかひは稍おくれて薙刀を杖[#「杖」に「ママ」の注記]いたまゝ左の手で胴を一寸搖かして居るといきなりパカ……と薙刀を打つ倒して飛び込みざま腦天をしたゝか打ち据ゑた、「軍配も引かないぢやありませんかといふ女の聲は恨と怒とを含んで居る、この一喝をくらつて更に姿勢をとつた時は薙刀つかひはもう見苦しい不覺をとるものではない、その道具に固めた姿は一見して男子である、老人はどうかと見ると悲しいことに腰が曲つて、さきの足が出過ぎて居る。左から拂つた薙刀は容赦もなく脛を切つた、老人の竹刀は構へたまゝ動かない、「あなたあんまり足を出してるからいけません、さう出して居るといくつでも切られますからと行司の注意で老人は大に足に心をとられたやうであつたがポツンといふ音と共に薙刀は面を打つた、しかしながら竹刀は既に頭上に揚つたので充分の打ではなかつたやうだつたが「充分に行つてるじやないかと薙刀は叫んだ、行司は暫く考へたがさつきから目も放たず見て居た莚の上の老人のもとへきてなにやら話すやうであつたが、兎に角いまのはかすりがあつたからいけないといふことになつた、充分ではないにしても二つまでやられたのだから相手の老人も考へざるを得ない、まだ軍扇を引かない内にしろ薙刀の手元へつけ入つて居る、薙刀が退いてはなれやうとすれば從つてつけ入る、「仕方がないぢやありませんかそれではと薙刀はぢれてきた、「どうもそれでは行司が軍配を引くわけに行きませんな、もつと離れて立ち合つて貰はなくつてはと行司が制すれども老人なか/\きかない、「いゝとも/\ずつと出ろ、なんでもいゝから飛び込んでやるんだと叫んだのは例の肝煎である、やつとのことで軍扇か引かれると老人乘地になつて飛び込んで「お面と皺枯れた聲で怒鳴つた、お面はまさしく打ち込んだのであつたが「こつちからも突きが行つてるじやないかと薙刀はやり返した「あなた薙刀を構へた所へ打ち込むのは危ないですよと行司が制した、老人が足に對する用心はゆるんだので、二たび三たびと脛を拂はれた、さうして遂に薙刀つかひを打ち込むことは出來なかつた、次から次と仕合があつたがはじめのうちは飛入の切先は鋭くても三合四合と打ち合ふともう疲れかゝるので興行仲部[#「部」に「ママ」の注記]の劍士には及ばぬのである、肝煎の男は一人で威張つて居る、「なんだいそんな胴なんぞ、いまちつとしつかとやれしかと、いゝからそこん所打ち込むんだなどゝ頻りに飛入劍士に助勢をするのでこの肝煎のために見物人の興は添へられた、さうして肝煎のはやり方は今にも跳り出して打つてゞもかゝるかと見えるのであるが、さきが劍客だけに滅多なことは出來ないのだから更に可笑しいのである。仕合が大分すんだ頃飛入の行司が現はれた、妙に勿體振つた容態がおかしいのに腰を屈めたり伸したり「ヤ、ム、ヤ、ム、と頻りに力味返つて跳ね廻るので「これぢや行司が水をのまなくつちやつゞくめえと見物人の中から惡口をいふものあつた、「おい行司々々少しわきへよけろ一ッ所に立つてちや見えやしねえと劍突をくれるものもある、さうしてポカポカ切り込んでも彼はなか/\それを取らない、劍士は迷惑であるが見物人のためには面白いのである、かくして最后の仕合に出たのは興行師の方では神戸なにがしで、とつ手のついた鍋蓋のやうなものを二つ持つて立ち向つた、一つは頭上に翳して一つは胸のあたりに構へた、さうしてぢり/\と敵の方に迫つて行く、相手は勝手が違ふのでうろ/\しながら打ち下した、鍋蓋は受け留るや否や相手の鍔元へ突き入るので、竹刀を構へるいとまもなく逃げ出す、すかさず追つかける、竹刀をかついで逃げまはる、とう/\二つの鍋蓋に押へつけられてしまつた、見物人は一齊ににどよめいた、この仕合がすんで薙刀つかひの女二人の劍舞があつた、劍舞が終ると四人がから手で出だした、長さが六尺ばかりの八角の棒が二本運び出された、眞黒なさうして疣のある太いところは鬼が持つ金棒そつくりである、羽織をつけた男が「これは腰固めに振る棒でありますが、どこへ行つても會員が振りますやうに二十と振るものはないのでありますが、覺[#「覺」に「ママ」の注記]召のあるお方はどうぞ出て腕だめしをなさるやうにと口上を述べると、ならんで立つた二人がぐるつと左の肩からめぐして地上二尺ばかりの所で水平に止め、それから右の肩からめぐして二十ばかり振つてやめた、あとの二人も二十ばかり振つた、「持つてごらんなさい重いものぢやありませんと見物人のそばへ持つてきたが、己が振らうといふものは一人もなかつた、棒振がすむと年寄役の老人と神戸との仕合になつた、老人といふのは七十二であるといふ觸れ込みである、パチヽヽと打ち合ひがはじまると、見物の一人が立つた、二人三人と立つた、場中半ばは立つて木戸へ押しよせる、「小手だ一本の小手はどうしたァなどゝ打ち合つて居るのに見物はもう殆んど惚立である、兩劍士の打ち合ははげしいのであるが、木戸の方でも「ろの八だろの八だ、はの五だはの五だ、との四はどうしたんだいと怒鳴るかと思ふと「駄目ですよそう押したつて、そつから出したつてしやうがねえなと叫ぶ、いつの間にか仕合は濟んで、引廻してあつた幔幕が取り除かれる頃やうやく木戸口はすいて來た、「酷いぢやねえか、この棒がぶち折れつちやつた、この力は五人や十人で押した力ぢやねえと木戸番は見物人が押し破つた所を指して呟いた、忙しくてがつかりしたといふ顏付である、外はどこの家でも寢たらしい、[#地から1字上げ](明治三十六年)
底本:「長塚節全集 第二巻」春陽堂書店
1977(昭和52)年1月31日発行
※冒頭の鍵括弧は、会話を表す他の用例とは意味が異なると考え、底本通り、前を1字あけました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2000年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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