娘が湯上りの赤い顏をして綻びでも縫つて居ればそれで安心が出來るからである。遁げた若者は欅の蔭にでも隱れて居ては又のこ/\と出て來る。仙右衞門の女房は此晩茶うけの菜漬が甘いといふのでむしや/\噛つて饒舌つたので一番あとではひることになつた。裸になつたまゝがらつと裏戸を開けて風呂場へ駈けて行つた。おゝ寒いといひ乍ら風呂の蓋をとつて手拭持つた手を突込んだ。さうしてアレと驚いた聲で怒鳴つた。風呂の湯がちつともなくなつてるといふ騷ぎである。寒さが急に身にしみて慄へて居る所へ厩の蔭から一人飛び出して土だらけの大根を後から肩へぶつ掛けて遁出した。女房は激怒したはづみに裸のまゝ闇の中を追ひかけた。さうして何かへ蹶いてどうんと酷い勢で轉がつた。忽ち三四人の聲でわあと怒鳴つて遁げてしまつた。さつきおすがの兄貴へ告口をしたのは仙右衞門の女房であるといふことを傭人から聞いたので若い者は風呂の栓を拔いてそれから大根を背負はして、豫め二人で繩を持つて居て追つて來る所をぐつと繩を引つ張つたから足を拯《すく》はれたのである。女房は口惜しくて翌日は起きなかつた。然し此の事があつてから惡戲はすつかり止んだ。それは間へ人が立つて兎に角若い衆へ謝罪つてどうか惡戲はしないでくれと年嵩の二三人に頼んだからである。兼次も此の惡戲の仲間であつたがいつかおすがの家の傭人と別懇になつた。時には傭人の懷へもぐり込んで泊つて行くこともあつた。以前は大勢で押し歩いたのが屹度一人でおすがの家のあたりへ行つて褞袍《どてら》を被つて立つて居るのが常のやうになつた。おすがゞ風呂へはひると其側へ行つては只立つて居る。おすがは默つてぼちり/\と手拭の音をさせながら成丈長湯をするやうになつた。時にはおすがゞ流し元で洗ひ物をして居ると窓から篠棒を出して知らせをすることもあつた。二人は遂に扱帶《しごき》と兵兒帶とをとりやりして型の如き關係が結ばれてしまつた。若い女の多くは男に執念くつけまはされゝばそこは落花流水の深い仲に陷るのである。互に決して離れまいといふ約束のもとに體につけた一品が交換される。孰れが厭になつても此一品が相手にあるうちは事件はこゞらける。女が親族などに強ひられて嫁にでも行かうとなつた時には男は女をおびき出すことがある。其所には双方から人が掛つてごつたすつたの絡れになつて結局は平氣で女が嫁に行く。そこは財産のある方から幾らかの手切が出るといふ捌きになる。手切の多少で二晩や三晩はごた/\で過る。それでも古來の習慣で此の變則な黄金の威力は大抵の紛擾を解決せしめることが出來る。それが兼次とおすがの間はこんな庖丁で南瓜を割る位な手ごたへでは濟まぬ強い關係が結ばれたのである。然し此の時はまだおすがの家の傭人より外には二人の間を知るものがなかつた。暫時にして若い衆の間にそれが響いておすがを狙ふ者はなくなつた。やがて波動の如く其が村一杯に擴がつた。それでもこんなことは特別の事件が惹き起されなければ人の注意に値せぬのが一般の状態である。此の如くにして幾日は過ぎた。
或早朝のことである。時候はまだ寒さがぬけぬ頃だ。兼次は深い心配な顏で綽名が四《よ》つ又《また》で通つて居る男の所へ來た。四つ又は豚の仲買をして小才が利くので豚での儲は隨分大きい。あれで博奕が好きでなければ身上《しんしやう》が延びるのだと評判されて居る。兼次の親爺と殊の外別懇である。
「兼ら何だえこんなに早く」
と四つ又は聞いた。
「おらちつと頼みたくつて來たんだ。おら「ツアヽ」は短氣だから打つ殺されつかも知んねえ」
「なにして又打つ殺されるやうなことに成つたんだ」
「ゆんべ遊びに出て褞袍なくしつちやたんだ。おすがら内の土藏ん所《と》け置いたの今朝盜まつたんだか何んだかねえんだ。それからおらうちへ歸れねえ」
「なんだそんなことかおれが謝罪つてやつから待つてろ」
四つ又は兼次の家へ行つた。お袋は竈に木の葉を焚いて居る。釜が今ふう/\と吹いて居る。四つ又はすぐに厩へ行つた。さうして
「ツアヽ」おら何でもえゝからおれがいふことを聽いて貰《も》れてえんだ。
突然にかういひ出した。「ツアヽ」といふのは子が其父に對する稱呼であるが四つ又は格別の懇意である上に年齡が違ふから時としてはかういふこともあるのである。一つは戲談をいふのが好きな性質から四つ又は何時もこんな調子で兼次の親爺に對する。
「なんでえ朝ツぱらから」
とおやぢは不審相にして半はいつもの戲談でもいはれるやうに微笑しながらいつた。
「ツアヽに打つ殺されつかも知んねえて心配してんだから謝罪りに來たんだ。なんでもかんでも聽いてもらあなくつちやなんねえんだよ」
「解らねえなひどく」
「いやわかつてもわからねえでも世間態もよくねえんだ。實は兼次がことだがおらぢへ來て……」
「あの野郎奴ほんとに
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