んなことで濟んでるなら人が共々心配をする必要はないのである。それから兄貴へ
「あの一件も困つたものだな」
 といふと
「困つたものですよ」
 といふから
「お前もあゝして二人を引きつけて置くのでは迚ても埓明きやうはないからお前もおすがを捨てることにしてそれで他から拾ふといふことにしたらどうにか示談が出來相なものだと思ふがどう考へて居る」
 斯ういふと
「わしは決してうちへは寄せねえといつたんでがす。實は松山のうちへわしが夜は泊りに行き/\したんですが、毎晩も行つてらんねえから時々お袋等が泊りに行くこともあつたんでがす。さうするとお袋なもんですからおすがも孤鼠々々はひり込むやうに成つたんでさ。それでもはじめはわしこと見ると遁げたんですから。兼次もわしに捉まつた時二度と決して足踏はしませんて證文張つたんでがす。わし今でもちやんと持つてまさあ。そんだからわしはうつちやつた譯なんでがす」
「いやうつちやつた譯でも二人のことをお前の家へ仕事に使つたりして居るのでは駄目ぢやないか」といふと
「忙しい時はほかゝら手もねえもんでがすからね」
 どれを叩いてもちつとも要領を得ない。
 おすがは自分の思つた男とお袋の膝もとに居るのだからちつとも心に苦勞がない。兼次も好いた女と世帶を持つて女の家の貢ぎをうけて居るのだからこれも苦勞はない筈だが只親爺が出逢がしらに短氣を起しはせないかといふ懸念があるばかりであつた。それも今では安心が出來た。或日のことである。田甫でばつたり親爺にでつかはした。親爺は手織木綿の小ざつぱりした絆纏を着て首へ風呂敷包を括つて居た。兼次はぎよつとした。それでもこちらから
「ツア、何處へ行く」
 と言葉を掛けたら親爺は微笑しながら
「うん、絲染めによ」
 といつてすた/\行つてしまつた。かういふ間に始終ひとりで氣を揉んで居るのは兼次のお袋である。親爺が短氣を出すから少しも喙を容れずに我慢して居る。相手になるのは癲癇持の不具者ばかりである。一目見たい孫も表向き抱いて見ることも出來ない。人に頼んで兼次へ衣物をやつたり汁の身の葱や大根をやる位に過ぎぬ。
「おら一日でも思ひ晴々としたことはねえんだよ」
 と十九夜講で女房達の落合つた時には遂ひ洩れることがあるのである。
「おらまあほんにあれがこつちや「ツアヽ」に隱してなんぼ足袋刺してやつたか知んねえんだよ。氷つた所をぢよりゝ/\押し歩いちやあ足袋も草履も一晩しか持たねえんだよ」
 聽き手があればしみ/″\とこぼした。村の同情は此のお袋の一身に集つた。事件の推移はこんな風で卵屋が業を煮やすことのある外表面甚だ平靜のうちに時日が經過して行く。
 世間は復た春が蘇生つた。鬼怒川の土手の篠の上には白帆を一杯に孕んで高瀬船が頻りにのぼる。船頭は胡座をかいた儘時々舵へ手を掛けただけで船は舳がぢやぶ/\と水に逆つてのぼつて行く。冬の辛さがこゝで一度に取り返されるので此の南風の味を占めては迚ても職業がやめられぬといふ時節である。篠の中には鳥馬《てうま》がそつちへこつちへ移りながら下手な鳴きやうをして菜の花から麥畑へ遊びに出る。兼次は此時輸卒として召集された。本來ならば自分の家からほろ醉になつた人々に送られて鬼怒川の渡しへかゝる筈であるのだが彼は變則にも其假住居から立つて行かなければならぬことに成つた。其朝彼は自分の家の近所へだけは暇乞に出た。其態度は狼狽して居た。隣の家では土間へ置いた汁鍋がひつくりかへつて居たので不審に思つて居たが、あとで兼次が隣のうちの「バケツ」を引つくりかへして來たといつたのを聞いたのでそれが兼次の仕業であつたといふことが知れた。有繋に勘當を受けて居る身であるだけに落つかれぬのだらうと人々は噂をした。此の外には一つも話頭に上ることはない。麥が刈られてさうして椋鳥が群をなして空を渡る頃兼次は歸つて來た。村のうちには毎日麥搗く杵の響が大地をゆすつてどこかに聞える。兼次は其麥搗の一人に成つた。麥は夜中から搗きはじめて朝になれば各八斗の量を搗きあげる。椋鳥はしら/\明に西から疾風の響をなして空を覆うて渡る。さうして夕陽の沒する頃西へかへる。空を遙かに飛ぶ時に麥搗は杵持つ手の右と左を持ち換へながら今日も日和だと叫ぶ。椋鳥が少くなつて稻刈になつた。刈田の跡の水のやうな冷たい秋が暮れて又冬が來た。鶸がよわ/\した羽をひろげて切ない鳴きやうをして林から刈田を飛びめぐる。さうして寒さは又小春にかへつて人々は岡の畑に芋を掘つて居るのである。
 短い日は村の林の梢に棚引いた土手のやうな夕雲に眞倒に落ちつゝある。横にさす光は麥の葉をかすつて赭い櫟の林が一しきり輝いた。畑のへりの茶の木の花は白々と光を帶びて居る。筑波山は見る/\濃い紫に染まつて來た。秋の末の晩稻を刈る頃から夕日のさし加減で筑波山は形容し難い
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