へられぬ。生を熱愛する私の感情と、生そのものゝ真実を攫まうとする私の理智とが絶えず相剋して、二つの間に溶けがたい隔りができる時、私は盲目的に生命を愛して行くか、或ひは自ら生命を断たなければならぬ境に入る。私は余りに愚かな私の理智を悲しむ。私の理智の眼が余りに力弱きものであることを悲しむ。しかも私は生命信愛の情に乏しいことを余り経験しない。殆んど生の信愛そのものが私の生命であり、生活であるやうにすら考へる。生きて行く現実から信愛の心を削つたならばその刹那に私の生活は滅びてしまふであらう。生命信愛――不断永劫の――はやがていのちの流れそのものではないか。私は何故に自己の生命を愛すべきかを知らない。しかし私は生命の信愛なしには一日も生きて居れない。智慧の実を食はなかつた時のアダムにも生命信愛の念はあつた。否な、かれは生命信愛そのものゝちから[#「ちから」に傍点]に動かされてのみ生存してゐたであらう。
生命信愛の念は人類にあたへられた本然的の意欲である。さらに押し拡げていへば、あらゆるいのちの表現の本然性である。栗の花はいのちの表現のために、微風に揺られつゝ生の信愛に顫いてゐる。庭前の梧桐も
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