てくれた。自然の厳かな堂々たる姿を見るということは、実際にいつも私の心を厳粛にし、人生のつかのまの心労を忘れさせる力をもっていた。私は案内なしで行くことに決めた。道はよく知っていたし、他人が居ては情念の孤独な壮絶さを壊してしまうにちがいなかったからだ。
登りは嶮しいが、道が頻繁に短かく曲りくねってつけてあるので、直立したようなこの山を登ることができるようになっているのだ。それは怖ろしく荒涼とした情景なのだ。無数の個所に冬の雪崩の跡が眼につき、そこに木が折れて地面に散らばっているのだった。すっかり倒れている木があるかとおもうと、曲って山の突き出した岩によりかかったり、ほかの木の上に横倒れになったりした木もあった。だんだん登るにつれて、道は雪の谷間にさえぎられ、その上から石が絶えずころがり落ちているが、そういう谷間の一つは特に危険で、大声で話をするくらいなごく小さな物音でも、その話をする人の頭の上に崩れかかるのに十分な、空気の震動をもたらすほどだ。松の木は、そう高いわけでもないし、茂ってもいないが、それは無気味で、情景に厳しい外観を附け加えている。下方の谷を見下ろすと、広漠たる霧がそこを貫流する河から立ちのぼってむこう側の山々に太い花環のように巻きつき、その山々の頂は一様に雲のなかに隠れ、雨が暗い空から降りそそいで、私のまわりのものから受ける憂欝な印象をよけい憂欝にした。ああ、どうして人間は、動物よりも感受性の強いことを誇るのだろう。それはただ、人間をもっと宿命的なものにするだけだ。私たちの衝動が、飢え、渇き、情慾などに限られているとしたら、私たちの衝動はほとんど自由であろうが、いま私たちは、どこから吹く風にも、ふとしたことばにも、あるいは、そのことばが私たちに伝える場面にも、動かされるのだ。
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われわれは休む。夢は眠りを毒する力をもつ。
われわれは起きる、一つのさまよう考えが昼を汚す。
われわれは感じる、思いつく、推論する、笑ったり泣いたりする。
つまらぬ悲しみにくよくよしたり、注意を棄ててしまったりする。
それは同じことだ。なぜなら、喜びであろうと悲しみであろうと、
それの離れ去る道は、いまだに自由であるからだ。
人の昨日は明日と同じではないかもしれない。
無常のほかに永続きするものはどこにもない!
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登りつめて項上に着いたのは、正午に近かった。私はしばらく、岩の上に腰かけて、氷の海を見わたした。その氷の海も、まわりの山々も、霧に蔽われていた。まもなく微風が雲を吹きはらったので、私は氷河の上に降りていった。表面はすこぶる凸凹で、荒れた海の浪のように隆起しているかとおもうと、低く下がり、深く沈下した裂け目が方々にあった。この氷原の幅はほぼ一里ばかりのものだったが、それを横切るのに二時間もかかった。むこう側の山は、むきだしの切り立った岩だった。そのとき立っていた側からは、モンタンヴェルは一里あまり離れたところにちょうど向いあって立ち、その上には儼としてモン・ブランが聳えていた。私は岩の奥まった所に居て、宏大なすばらしい情景を眺めた。氷の、海というよりはむしろ大河は、依存する山々のあいだを曲りくねり、宙空に懸るその山の頂は、岩の窪みの上に覆いかぶさっていた。氷をまとってきらきらとした峯は、雲の上にあって、日光に輝いていた。それまで悲しみにみちていた私の胸も、今は何かしら喜びのようなものにふくらんだ。そこで、私は叫んだ、――「さまよっている魂よ、汝がまことにさまよっていて、狭い寝床に休まないとしても、私にこのはかない歓びを許せ。さもなければ、汝の仲間として、生の歓びから私を奪い去ってくれ。」
こう言ったとき、とつぜん、かなり隔たった所に、超人の速力で私に向って進んでくる人影をみとめた。それは、私が用心して歩いてきた氷の裂け目を跳び越え、近づくにつれてその背丈も人間以上であるように見えた。私は胸さわぎがして、眼に霧がかかり、気が遠くなるのを感じたが、山のつめたい強い風ですばやく正気にかえった。その(見るからにものすごくて憎らしげな!)姿が近づいてくると、それが私の創造したあの下劣なやつであることがわかった。私は怒りと恐怖に慄え、やって来るのを待ってから、組み打ちをして生きるか死ぬかの戦いをする決心をした。そいつはやって来た。そいつの顔は軽蔑や悪意をまじえたむごたらしい苦悶を示し、この世のものならぬ醜悪さがそれをふた目と見られないほど怖ろしいものにしていた。しかし、私には、そんなものはほとんど眼に入らず、怒りと憎しみとで口がきけなかった。私はやっと気を取り直して、狂おしい嫌蔑のこもったことばでほとんどそいつを圧倒しようとした。
私は叫んだ、「畜生め、近づくなら近
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