か四代かの承繼ぎが行はれたでありませう。その最後の百姓太郎右衞門夫妻が『譜代召つかひ候家來』の家に引取られて退轉したといふ『開發舊記』の記事が如何にも人生の有爲轉變を物語り、頗るドラマチックの光景を髣髴たらしめます。
かうして、兄の五十嵐大膳の子孫は絶えましたが、弟の九十九完道の子孫は今も細々と家系を繼續してゐます。勿論それは文字通り細々と、であつて、前にも言ひました通り祖先傳來の家も屋敷も無くなり、寺も神輿も灰燼に歸し、村そのものも昔の面影を全然失ひました。『國亡びて山河あり』といふ言葉がありますが、日本の政治も社會組織も、わが村の生活も幾變遷、幾興亡を重ねて今日に至りながら、北に赤城、西に榛名、妙義の諸秀峰を望む私の生地、利根、吾妻、烏、諸川が合流して大利根河を成せる、その急流に臨む私の故郷の自然は、昔ながらの悠揚たる姿を依然として展開してゐます。この急流に足をさらはれて、あつぷ、あつぷともがく間に不思議にも身體が浮かび、瞬間的に遊泳の術を覺えたのも五六歳の幼年時でした。遠い山しか見たことのない私は、山は青くなめらかなものと信じてゐました。幼時から『山高きが故に尊からず、木あるを以て尊しとす』といふ『實語教』を素讀しながら、山に木の生えてゐることを初めて見て驚いたのは十一二歳の頃秩父郡に旅行した時でありました。
私たち同郷の少年たちは、河の水は必ず西から東に流れるものと信じてゐました。或る夏のこと、川邊の砂原で五六人の仲間が眞つくろに日やけした背中を並べて甲らを干してゐましたが、何かの話の序に、一人の少年が河は西方へも流れる、と言ひ出して大論爭になりました。その少年は越後から移つて來たものなので私達は一齊に『この越後つぺい、生意氣なことをいひやがる。越後だつてどこだつて、水が西に流れるつて法があるかえ馬鹿野郎! 水はかみからしもへ流れるにきまつてらい!』とののしるのであつた。私の郷里では西がかみで東がしもなのであつた。多勢と一人ではさすがの越後少年も對抗し得ず、齒がみしてくやしがつてゐた。しかし、彼は何か一案を得たものの如く、俄にその砂原を兩手でかいて、渚から西方に向けて一線の溝を掘つた。そしてそこにあつた小さな水たまりに河水を導き流した。『どうだ、見ろやい、利根の水だつて西の方へ流れるぢやねえか』彼はいういう迫らず勝利者の態度でかういひました。世間見ずの私どもは一言もなく沈默を守るより他に仕方がありませんでした。
私が初めて東京に出たのは、十五歳の時でした。その時一番に驚いたのは人間の多いことでしたが、次に驚かされたのは東京灣の海面の廣大なことでした。自然界に對する知識がこのやうにあはれにも貧しかつたのは、全く當時の教育法の缺かんであつたと思ひますが、人間界のことについては可なり進んだ知識を與へられたやうに考へます。
私の父は子供達の教育には並々ならぬ注意を拂つたらしく、常に家庭教師を招いて兄達の勉強を助けました。養蠶期或は暑夏期に小學校が數週間休校の時には特に學校の先生方を聘して、私達兄弟と村童達のために特殊學校を開いてくれました。父は何かの用事があつて屡※[#二の字点、1−2−22]東京・横濱に行きましたが、置時計を買つて來て村人を驚かしたことが私の幼年のころの思ひ出にのこつてゐます。父はその頃から洋服をきることがありました。明治十八年(一八八五年)の頃だと思ひます。初めて利根川に船橋が架設せられ、本庄町(埼玉)と伊勢崎町(群馬)との街道が直通し、縣知事や郡長が馬車で巡視した時架橋者總代たる父は例の洋服で案内役をしたことを今も幽かに覺えてゐます。云はばハイカラの田舍紳士であつた父は自由民權論の急先鋒板垣退助の讃美者で、板垣の大きな肖像などが家に飾つてありました。それは私どもの小學校の先生で後には地方の政治運動の大先輩になつた持田直といふ人が自由黨であつたためかも知れません。福澤諭吉の『學問のすすめ』なども次々に取り寄せて兄に讀ませ聞くのを父は非常に樂しみにしてゐたやうです。
私が十五歳の時、私を東京に呼んでくれたのは、郷里の先輩、茂木虎次郎(後に佐藤となる)といふ米國法學士の新歸朝者で、私の家に來てくれて、直接私に出京を促すので私はうれしくて飛びたつばかりでした。明治廿三年(一八九〇年)右の茂木氏とその同窓の橋本義三氏(後の粕谷氏、衆議院議長)との共同家庭の玄關番になつたのは、それから間もないことでありました。そこで初めて社會主義の話を聞き、佐藤氏がアメリカで見聞したシカゴ無政府主義者の大ストライキの物語などを聞いて私は少年の血を湧かしました。
叛逆への興味
ルクリュ翁は興味をそそられて長椅子から起き上り
「一八九〇年に早くもシカゴ・アナキストの話を聞いたとは驚いたが、當時あの事件がどんな影響を日本に與へたらうか」
「さあ、僕は十五歳の少年であつたから何も分らなかつたが、それから間もなく、國會議事堂に爆彈を持ちこんだものがあつたとか色々物騷な噂が傳へられた」
「議會に爆彈が?」
翁は益※[#二の字点、1−2−22]驚いたやうであつた。ヴィヤン青年がフランス國會に、而も議事進行中に爆彈を投じたのは一八九三年で、その教唆者と見なされて重懲役二十年の刑を受けて現に祖國亡命中の翁が驚くのも尤もな次第だ。もちろん翁は自分の重大事件などを口にはしなかつた。私はただ當時の翁の態度を思ひ出して、今、自ら合點するのである。マダムもいささか激動の樣子であつたが、やがて冷靜に返つていふ。
「そこで、あなたは無政府主義者になつたといふ譯ですか?」
いえ、いえ、わたしが無政府的社會主義者になつたのは、それから十數年を經過した後のことでそれまでには、生活の上にも、思想の上にも、樣々な變遷があり、浮き沈みがありました。この弱小な生命の上には容赦なく浮世の荒浪が襲ひかかつて來たので、今その過去をふり返つて見て、自分ながら、よくもこれまで、自分を保つて來たものだと驚くばかりです。
私の父は次兄を東京に遊學させるために、母をも共に上京させ同郷の青年學徒達の食事の世話をさせましたが、漸く東京の生活に慣れた母は、下宿屋の看板を出して、より多くの人を止宿させるやうになりました。そこへ下宿したのが同郷の新歸朝者茂木虎次郎、橋本義三の兩氏で、この兩氏がやがて一戸を持つことになつたので私はその家に招かれたのです。その時、茂木氏等は土佐の板垣門下の人々と『自由新聞』といふのを創刊して人民自由のために大いに活躍し始めたのです。最初の衆議院議長中島信行といふ人を始め、江口三省、直原守次郎などいふ急進的自由主義者が屡※[#二の字点、1−2−22]來訪し、後には信州飯田事件の首謀者櫻井平吉氏も同居者となり、ほとんど毎晩、社會問題の議論が沸騰しました。江口氏は自由黨の綱領中に勞働者解放の一項を加へんことを主張して容れられず、遂に自由黨を脱退した人なのです。また自由新聞の方も、橋本(粕谷)茂木(佐藤)等と板垣派とは意見が合はず遂に腕力沙汰に及んで茂木氏はしたたか襲撃せられました。私は呼ばれて茂木氏の避難所を見舞ひましたが、それはこんぱる(金春)の藝者屋か或は待合であつたと思はれ、美しい姉さん達が幾人も付き添つてゐました。私が室に入ると茂木氏は寢臺から起きあがり、家は無事ぢやつたか己れはこんなにやられた、と、ずたずたに引裂かれたフロックや切られた時計の金鎖などを示すのでありました。私は社會主義のことなどは能くわからないが、かうした鬪爭には頗る引きつけられ、茂木(佐藤)氏はこの世の一番偉大な英雄であるやうに感じました。
ところが、かうして自由新聞はめちやくちやになり、茂木氏は中島信行夫人(有名な湘烟女史)の媒介で紀州の素封家佐藤長右衞門氏の女婿となり、橋本氏は同郷の粕谷家に入婿となりました。一家離散と決定して淋しき未來が待ちまうける如く見えた私は、同じ米國歸りの福田友作氏に引き渡されることになりました。福田氏は中村敬宇先生の同人社に教鞭を執ると同時に、社會運動などにも關係してゐました。福田氏の住居は新婚の家庭であつた筈ですが、新夫人は留守がちで私と他の一青年とはいつも同人社の食堂で食事をすませました。それから間もなく同人社社長中村敬宇先生は死去し、同人社は閉鎖され、福田氏はその家をもたたむことになり、私は母の許に歸りました。
丁度その時、勃發したのが埼玉硫酸事件といふ地方の政爭で、私の兄二人親戚など二人と、兄の學友二人と、都合六人が刑事被告人となつて鍛冶橋監獄に投じられました。私の一家は自由黨であつて縣政上の改進黨と爭ひ、最後の手段として政敵を上野、王子間を進行中の汽車の中で襲ひ、これに硫酸を浴びせて、下手者は車窓から飛び下りたのです。すべての計畫は私の次兄が發案したことで、彼はまだ十九歳の青年で、今の中央大學の前身、東京法學院の學生でありました。兄の命令で私も一度はその硫酸を買ひ求めに遣られましたが、子供の故を以て、藥屋は賣つてくれませんでした。そして、こんどは長兄が出かけて遂に一罎の毒藥を入手することが出來ました。いよいよ決行の前夜、五人の同志は最後の晩餐といふべき酒宴を張りましたが、その時の光景は悲痛を極めた眞劍なものでありました。下手者に選ばれた男は自ら進んで其任に當つたのですが、さすがに涙ぐんだりして、私の兄に叱られた樣など、今も眼に見るやうに思ひ出されます。決行の列車が王子驛に着くと直ぐに警察官が出張し、間もなく兄達四人の同志は捕獲され、下手者もその日の内に捕へられました。その三日目頃、家宅搜さが來て、家中を掻き亂しました。私が硫酸を買ひに行つて無駄になつた購入書が火鉢の引出にあることに氣づいた母は、何とかして處分したいと思つたが、刑事が眼前にゐるので如何ともすることが出きず、隙を見て口に入れて飮下しようとしたがうまく行かず、遂に煮たつてゐた鐵びんの中に投じて發見を免れたといふ悲喜劇もありました。この事件で次兄と學友二人と親類のもの一人とは無罪になりましたが、長兄と下手者とは一ヶ年と三ヶ年との刑を被るに至りました。どの被告も口を割らないので未決が一年半もかかりました。次兄も初審で一年の禁錮を宣告されたが、再審で江木衷氏の辯護によつて無罪になつたのです。それは明治二十六年六月頃のことです。
このやうな事件に遭遇する度ごとに、私は、叛逆的行動に興味をそそられるやうになりました。兩兄が出獄し、次兄が法學院を卒業して母とともに歸郷したので、私は同じ家にゐた先輩の世話になることになつたが、間もなくその先輩に叛逆して、その家を飛び出し再びさきの福田友作氏の家に寄食することになりました。その時、福田氏は先妻と離別して、大阪國事犯のヒロイン景山英子氏と結婚して既に男の子を儲けてゐました。
變轉の若き日
三男に生まれた上、生まれ出ると間もなく形式ながら他家の養子にされた私は、いはば一家の餘分ものでした。況んや、家道の傾いた父から學資を送つて貰ふことはできませんでした。從つて周圍に起つてくるめまぐるしい變轉の浪に伴つて、わたしの生活も浮動するのでした。いろいろと自活の道を見出させようとして父は私に内職の仕事などを探させましたがうまく行きませんでした。その間においても、私は時間の都合を計らつて、國語や漢文や數學や英語などを一通り勉強しました。もちろん不規則な勉強ですから上達しませんでした。いま私の印象に殘つてゐる當時の修業の中では、帝國教育會(辻新次氏會長)内文學會における根本通明老師の論語や詩經の講義、畠山健氏の枕の草子の講義や立花銑三郎氏と元良勇次郎氏の倫理學などが、最も多くの影響をわたしの心に遺してくれました。二三ヶ月通學した山本芳翠畫塾の思ひ出も、出京後最初の勉強であつたことを理由として、深い懷しさの對象になつてゐます。先輩塾生中には湯淺一郎、白瀧幾之助、大内青也(?)などといふ、日本の洋畫界では最も古い人々がをりました。しかし環境の變るに隨つて、私の修業も變りました。交通の便もなし、自修の資材を缺いた當時では
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