浪
石川三四郎
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ルクリュ家へ
一九一三年の初夏のころであつた。或る土曜日の午後私はベルギーの首都ブリュッセル東北隅のエミール・バンニング町にポール・ルクリュ翁を訪問した。ベルを鳴らすと翁自身が扉を開いて迎へてくれた。ネクタイもカラも著けず上衣も著けず、古びたチョッキと縞もわからないシャツを纒うて
「よく來てくれました、待つてゐました。ツ・ミン・イ君は?」
といひながら、私を應接室に導いてくれた。前の土曜日に支那の友人楮民誼君に伴はれて初めて同家を訪問したが、その時は忙しくて話をしてゐられないから、次の土曜日に來てくれといふことであつたのだ。
「ツ・ミン・イ(楮民誼)君は急用でパリに行つたので、一人で伺ひました」
といふと
『ああ、さう!』とうなづきながら、廊下に出て、階上に向つて大きな聲で『日本の石川君が來たから、降りて來なさい!』と怒鳴つた。二階か三階か、上の方から、『はい!』といふ答が反應のやうに響いてきた。かねて話し合つてゐたものと見える。やがて降りて來たのはマルグリト・ルクリュ夫人であつた。ポール翁は私と並んで同じカナッペ(長椅子)に座を占め、マルグリト夫人はわれわれに向つて腰をおろした。そして、どうしてルクリュ家を訪問する氣になつたか、と問ふのであつた。
私は豫てからエリゼ・ルクリュの名を慕ひ、私の獄中で書いた『西洋社會運動史』にもルクリュがボルドー附近のサント・フォア・ラ・グランドで生まれたことが書いてあり、この地にお住ひと聞いて是非お眼にかかりたいと楮民誼たち支那學生に紹介方を頼んだ次第だ、と答へた。そしてちやうど持つて行つた私の赤表紙の著書を出してルクリュの名の出てゐる箇所を開いて見せると
「こんな立派な書物を獄中で書くことが許されたのですか?」
と些か驚きのていであつた。その間、ポール翁は別室に行つて一葉の寫眞を持つて來て
「これを知つてゐますか?」
と私の前に突き出した。それは最初の平民社當時、たしか共産黨宣言が發禁になり、瀧野川の園遊會が禁止された時、記念のために撮影した堺・幸徳・西川・石川四人の寫眞であつた。
「知つてゐるどころか、私自身がこの中にゐる」
と私がいふと
「それは私も豫て支那の學生達から聞いて知つてゐる。しかしそれにしても、どうして君は死刑を免れたか?」
とたたみかけて質問する。
「幸徳の事件が勃發した時は、他の三人は皆監獄の中にゐたからあの事件には關係がなかつた」
と答へると、また翁は直ちに
「そして君は、どんな風にして脱獄することができたか?」
と熱心に問ひ返すのであつた。ルクリュ翁が、かう熱心に質問するのも無理ではなかつた。翁の親しかつたバクニンでも、クロポトキンでも、みな脱獄者であつた。ルクリュ翁自身が、二十年の重懲役の宣告を受けて、祖國を脱出して現に亡命生活中の人であつたのだ。
そこで私は刑期が滿ちて正當に出獄し、大逆事件で再び捕へられたが釋放されたこと、『西洋社會運動史』は發禁になつたこと、周圍の情勢は緊迫して身動きもならぬ有樣になつた時、支那及びベルギーの友人の熱心な勸告と援助とによつて幸運にも故國を脱出することができたこと、などを説明した。
その間にマダムは茶を入れて來た。それから三人の間には、茶菓を喫しながらの樣々の談話がかはされた。そして最後にルクリュはフランス語の國に來て生活するには先づ第一必要條件としてフランス語を知らねばならぬとて、エリゼ・ルクリュの大著『世界新地理學』の東亞の卷を書架から引出し、その中の日本の記事のところを開いて『ここを讀んで御覽なさい』といふのであつた。そして私に解らないところを英語で説明してくれるのであつた。
初對面からこんな有樣で、私はこの家の一族のやうに扱はれた。しかし私自身はまだ交際に慣れない野ばん人で、英國のカ翁のところへ行つたり、ブリュッセルの合理的社會主義の一派ギリヨーム氏のところへ行つたりして、職業を求めてゐた。けれども獨立生活の道は容易に見つからない。私は遂に行きづまつてルクリュ翁に訴へると『なぜ早くいうてくれなかつたか』と小言のやうな口調で『すぐ來い、室をあけて待つてゐる』といふ手紙を英國で受取つた。
かうして私がルクリュ家の一家族となつたのは一九一四年四月であつた。私は一同志の紹介でペンキ職になつた。白いブルースもその同志が寄付してくれて、毎日十時間勞働で、どうやら生活の道が立つといふ自信ができたときは『おれもこれで一人前の人間になれた』と私は心中に叫んだ。そして大空に向つて大威張りで腹一ぱいの呼吸ができた。
この時から私は毎晩、食後の一時間をルクリュ老夫妻とともにすごし、いつもフランス語のけいこを兼ねて、私の身の上ばなしを續けた。しかし私の對話は主としてマダムとの間に行はれ、翁は寧ろ傍聽者の格であつた。わたしはこれから、その時の物語を思ひ出づるまにまに再記して見たい。今はなきルクリュ翁夫妻の思ひ出ともなり、私にとつてはまた感慨の盡きぬものがある。
ことばの失敗
「どうです? 少しは慣れましたか?」
勞働生活を始めてから五日目頃、晩餐後の團欒時のマダムの發言であつた。最初に當てられた私の仕事は兩梯子の頂上に立つて高い天井に下塗りをすることであつた。左手に白色ペンキを滿たしたバケツをさげ、右手に大きな刷毛を持つて、毎日十時間も左官の仕事をすることは、私にとつては可なりの苦痛であつた。最初の二三日は發熱して夜分もよく眠れなかつた。殊に梯子の頂上に立つ足の緊張とその疲勞は甚だしかつた。一度すべれば生命はなくなる。あぶない藝たうだ。けれどもこの場に及んでは一心不亂であうた。今思つても戰慄を禁じ得ない仕事が事もなく遂行された。環境が私を鍛へてくれたのだ。
「もう大丈夫です。仕事にも慣れ、授かる仕事もいささか昇級のかたちです」
就職して五日目には、壁面に大理石の模樣を付ける少々藝術的な仕事を擔任するやうになつた。かうして私の身體と心とに餘裕ができて來たので、語學の勉強を兼ねて、毎晩マダムとの對話が續けられることになつた。
「あなたが、ここに來られると聞いたので、私はルドビリ・ノドオといふ人の『近代日本』を讀みました。その中に、あなたの名も出てゐる。イシカハ・ケンといふ地方名もある。縣名を姓にする位だから、あなたの家の家がらは地方の貴族なのでせう?」
といふマダムの質問が出たのもその時だつた。なるほど『近代日本』には、日本の社會不安を序した章に、ニシカハ及びイシカハの『日本社會黨』が解散を命ぜられたことが書かれ(これは何かの間ちがひであらう)すぐその次の頁にイシカハ・ケンの紡績工のストライキが述べられてある。
「いえ、私の家は地方の農家です」
と答へれば、マダムは直ぐに言ふ。
「それではペイザン・アリスト(農村の貴族)なのでせう」
「私の生まれた家は石川ではなくて五十嵐といひ、農村の舊い貴族と云へるでせうが、石川の方は貧しい農家です」
「ああさうですか。イシカハよりはイガラシの方が、發音が美しいですね。ところで、イシカハやニシカハのシカハとは何を意味しますか? 二つ姓がただイとニとで區別されるのはどういふ譯ですか?」
マダムはフランス語を私に教へるかたはら日本語の研究を始めるのであつた。
「これは石と西とで區別される川を意味する名稱です」
「はあ、ピエール・ド・リビエール(川の石)と、ウエスト・ド・リビエール(川の西)ですか」
とマダムは速解する。フランス語では形容詞を名詞の後に置くのが常例なので、石川を『川の石』西川を『川の西』と解釋したのであつた。
次にマダムから發せられた質問は、『妻君はどうしてゐるか?』といふことであつた。
「私は結婚してゐないから、身輕です」
と言へば、
「どうして結婚しないのですか? 獨身主義なのですか?」
とせめ立てる。
「いや獨身主義ではありませんが結婚の機會を逸したのです。それに私の今の考へでは、結婚は財産權と同じく排斥すべきだと思ひます」
少々うしろめたい氣持でもあつたが、かう言つてのけた。マダムの氣にさはりはせぬかと不安であつたが、意外にも賛成らしい面持で、愉快さうに
「さうですか、この國にも、さういふ論者が澤山あります。しかし、それでこの世の生活が淋しくはないですか?」
「しかし、わたしは、戀はしました。そのために些か狂ひもしましたが、遂に結婚生活はできませんでした。そして今では、自分の妻だの夫だのといふ符牒が、何だか馬鹿げて感じられるやうになつたのです」
「そりや、あなたの仰しやる通りよ。けれどもね、わたし達のやうな友愛生活になると、ちつともさういふ不愉快はありませんよ」
室の一隅に長椅子の上に横たはつてゐるルクリュ翁を顧みて
「ねえ、さうでせう! ポール」
と同意を求めた。
ポール翁は横臥したまゝ、そんなことには答へもせず
「フランス語の稽古をやらんのかい、その方が大切だよ」
と大きな聲で怒鳴るのであつた。
わたし達の對話は英語とフランス語とがちやんぽんに使はれ、話がこみ入つて來ると、英語の方が主になり勝ちであつた。ルクリュ翁の怒鳴つたのはその點についてであつた。そこでマダムはフランス語の發音法にうつり、フランス語は舌の先で發音しないでアゴでするやうになど、自ら實演して教へてくれる、そして仕事のあひまに動詞の變化を暗誦しなさい、と文法書の一頁を開示してくれるのであつた。
こんな有樣で、わたし達の對話は殆ど毎晩續けられた。そしてその話題は、わたしの生ひ立ちなどが、最も深くマダムの興味を引いたので、自然にそれが多かつた。時には地圖まで出して日本の社會状勢の變遷などを物語ることもあつた。そして、そんな時はルクリュ翁ものりだして來て、話しの仲間に入るのであつた。
ここでこの最初の會話に於てわたしが大失敗を冒したことを付け加へたい。それは四、五年の後、ほんたうにルクリュ家に親しくなり農業生活をするやうになつてからマダムに教へられて初めて知つたことであつた。それは私が『戀はしました』(ジェイ・フェイ・アムール)といつた、その一語であつた。フランス語ではこれは『女と寢る』こと『色をする』ことを意味するので婦人の前などで發音すべき言葉ではないのだ。しかし私が英語の『アイ・ドウ・ラヴ』を佛譯したものとマダムは想像したので、餘り氣にも留めなかつたし、私のフランス語の勇氣をくじかぬやうにと考へて特に不問にふしたのだといふ。普通の婦人の前で、こんな言葉を口ばしつたら、激怒されるか顏を背けられるところであつた。かうした失敗は、七、八年も同居してゐる間に幾度くりかへしたことか、その度毎に親切に戒められたことを、今も思ひ出して私は有り難さの感激を新たにするのである。
生家の思ひ出
「あなたは、どうして無政府主義者になりましたの?」
マダムの話題は當然この問題に到達した。この問に答へるには、わたしの精神史と環境史とを語らねばならぬことを説明すると
「話して下さい。それは日本の社會、日本の近代史を知る上に、興味ある資料となるでせう。是非話して下さい。私達が結婚する時の第一の條件が、東洋諸國殊に日本に旅行し、日本を研究することであつたのです。いま日本人のあなたから、直接にあなたとあなたの國とについて、お話を伺ふのは、ほんたうに愉快です」
「それは私の全半生の物語になり、マダムはきつと退屈されるでせう[#「退屈されるでせう」は底本では「退屈されるでせせう」]」
「ノー、ノー、ノー、私達のあこがれの國の物語よ! 話して! 話して!」
「では話しませう、少しづつお疲れにならない
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