一物の翁なればこそ、無一物のわれわれに同情が持てるのです。わたしは何時もながら眞心から翁に感激しました。
翁は元日から若いものどもにかしづかれながら、屠蘇に醉うて大元氣でした。唐紙がせん紙を翁の前に並べると、翁は一ぱいきげんで盛んに書きなぐりました。
「大雨にうたれたたかれ重荷ひくうしの轍のあとかたもなし」
「天地大野蠻」
「壯士髮冠をつく日の出酒」
「若いもの見てはうれしき今朝の春」
「餘り醉ふことはなりません屠蘇の春」
といふやうな文句は今でも記憶してゐます。翁は大はしやぎにはしやいで三日に東京の方に行きました。家の無い翁の後姿はいかにも淋しさうに見えました。
翁が去つて二、三日たつと前述の發賣禁止事件でわたしは横濱の警察に引致されました。それを聞いた支那の革命少女T君はベネジクティンの大壜を携へて來訪されました。T君は民國の第一革命を横取りした袁世凱の暗殺を企てて失敗し、危く捕へられようとした時ベルギーの領事G君に救はれ、G君に伴はれて日本に來た人です。G君はかねて二、三度わたしの家に來訪したことがあり、このG君から私のことを知つたのです。(この人のことは『爆彈の少女』[#「『爆彈の少女』」は底本では「『爆彈の少女」」]として幾度か紹介したことがあるから、ここには述べますまい。)
「あなたは、かうして、ぐづぐづしてゐると、幸徳のやうにくびられてしまひます。早くこの國から脱走しなさい。旅費はわたしが出します」
と勢こめてT君は言ふのです。この少女の情熱にほだされて、わたしの日本脱走は決せられたのです。
このことは渡邊と堺と二人に知らせたのみで、他のすべての同志には祕密でした。堺は送別のためにとて、有樂座の文藝協會演出アルト・ハイデルベルヒに招待してくれ、わたしは最初にして最後に松井須磨子を見ました。
三月一日、わたしはひそかに佛國の巨船ポール・ルカ號に乘り込みました。渡邊から特に知らされて見送つてくれた青年山本一藏は岸壁に唯一人とどまつて、いつまでも見送つてくれましたが、それが永遠の別れになりました。彼は早稻田を優秀の成績で卒業しながら、間もなく鐵道自殺を遂げました。田中翁はわたしの脱走を聞いて些か淋しさうでしたが『わたしはヨーロッパに行つて、必ずあなたの傳記を書いて、あちらの人達に知らせてやります』といふ一言をもつて、わたしは翁にお別れしました。そしてそれが永遠のお別れになりました。
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(永々紙面を汚しました「浪」は限りなくつづくのですが、一先づこれで……)
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[#地から2字上げ](昭和二十三年五月―十二月)
底本:「日本現代文學全集 32 社會主義文學集」講談社
1963(昭和38)年12月19日発行
初出:「平民新聞 第73号〜第102号」
1948(昭和23)年5月24日〜12月27日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:仙酔ゑびす
2006年11月17日作成
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