たしが送つてあげると答へましたので、すぐに半紙に細字で慰問の手紙を書きました。わたしはすぐに張繼に關する返事とともにそれを幸徳に送るつもりでしたが、つひに間にあはず、幸徳は刑死してしまひました。
 章炳麟は支那學の大家で、滿洲、朝鮮排撃の急先鋒として、つとに光復會を起した人であります。呉稚暉だの蔡元培だのといふ、さうさうたる人物がその門下から出てゐます。呉、蔡兩氏は無政府主義的理想家としてともに支那青年層に多大の感化力を持つに至りました。これ等の人々の先輩である章炳麟は當時『民報』の主筆として故國の革命を鼓吹してゐましたが、その『民報』が告發せられて東京地方裁判所の法廷に被告として立つことになりました。わたしはそれに辯護士を紹介してあげた關係から、付添人の格で法廷に出席しました。黄興や宋教仁や汪兆銘もそのとき一しよに行きました。法廷が開かれると一人の辯護士が章氏は精神異常者であるから精神鑑定をしてもらひたいと申請したので、わたしはその辯護士(それはわたしの紹介した人ではなかつた)に抗議し、章氏は偉大な學者であり、その性格や素行に常軌を逸するところがあつても、決して精神異常者ではない、いまの申請はとりさげて下さい、といふとその人はその申請をとり下げると同時に退廷してしまひました。怒つたのです。法廷が終つて、黄興、宋教仁、章炳麟とわたしと、四人で日比谷公園の松本亭で午餐をともにした時、黄興は言ひました。
「章さんは少々精神異常者というてもよろしい、辯護士さん氣の毒なこといたしました」
 さすがに黄さんは人間が大きいなと思ひました。この裁判事件は、わたしが巣鴨監獄を出て間もない時分のことであつたと思ひます。

 さて、大逆事件があつて以來、わたしどもの生活の道は八方ふさがりになりました。進退まつたく谷まりました。わづかに内密の代筆や飜譯で口を糊するに過ぎませんでした。刑事二人が晝も夜も家居の時も、外出の時も、常にわたしどもに離れず警戒を續けるので、知人を訪問することも遠慮せねばならなくなりました。この時わたしに屡※[#二の字点、1−2−22]代筆の仕事を與へてくれたのは辯護士花井卓藏氏でありました。花井のところには、わたしは十五、六歳の時から出入し、同博士の長男節雄君が死んだときには、香爐を持つてその棺を送つたほどでしたが、この生活難に際しても隨分世話になりました。かつて木下尚江が發行するところの『野人語』に、わたしは花井邸訪問の一齣を次のやうに書いてゐます。
「この堂々たる訪客(堺利彦、野依秀市兩君)の中に、十年着ふるしたるハゲがすりの、この夏一度も洗濯せざる單衣をまとへる予の、いかにみすぼらしく見えしよ。加ふるに予は昨年入獄の際より呼吸器に微恙を得て、やつれし小躯を湘東の一漁村に養ふの身の上である。二十年舊知の花井博士の眼にはこの光景が如何に映じたであらうか。
 堺、野依の兩君は所用を濟ませて辭し去つた。暫くして予もまた所用をすませて當に座を立たうとした。その時花井氏は聲を懸けて
『ちよつと……』
 といふ。何時になく沈んだ聲である。
『失敬だけど、はなはだ失敬だけれど、着物を一枚あげたいが、着てくれますか……』
 予は子路のやうな豪傑ではないが、さりとて衣服の粗末なるを恥ぢらふほどに世俗的でもない。たゞこの頃中から種々なる無理な無心を申し出でてたびたび迷惑をかけた揚句に、この優しい言葉に接して、俄かに心臟の血がワクワクするのを覺えた。
『えゝ、ありがたう』
 と予が答へるのを聞いて、花井氏は、すたすたとドアを排して出ていつた。すぐに歸つて來た。新聞紙にくるんだ物を小脇にかゝへては入つて來た。
『失敬なやうだけれど、君と僕との間だから、惡るく思うて呉れたまふな』
『いえ、どう致しまして』
『僕がちよつと着たのだから、きたなくはない』
『結構です、どうも着物のことなど少しも關はんものですから……』
『關はないのはよろしいが、あんまり、ひどいや』
 花井氏は顏をしかめてかう言ふ。その澁い底力のある聲は少しくうるんでゐる樣子であつた。
『恐縮です』
 博士自らていねいに包みなほして、カタン糸にてゆはいて呉れたのを予はいただくやうに受取つた。予は拜領の包を抱へて椅子から立つた。花井氏はまた一語を送るのである。
『早く身體を丈夫にしてね……』
 予は花井邸の玄關をそこそこに出て、ほつと一息した。平生『敞衣褞袍、興衣狐狢立、而不恥者、其申也歟』など言うて、いささか誇りにしてゐた予も、人情の不意討を喰うて不覺の涙さへ禁じ得なんだ」
 當時の私の状態がいかに哀れなものに見えたかが想像せられます。わたしに飜譯の仕事を世話してくれたり、いろいろ助力をしてくれた同郷の先輩、佐藤虎次郎氏――この人のことは前にも書いた――は或る時わたしに勸告して
「もし
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