人があつたので、バルコンに出て見ると、錦町の街路は、數丁の間黒山の人で一ぱいでした。これはしまつた、と強いショックを受けたが如何することもできません。
赤旗を擁護して戰つた人々の中には若い娘さん達もゐました。山川均前夫人、大須賀里子さんは柔道の達人で、巡査を街頭に投げ飛ばしたといふ評判でした。神川松子孃も常に肩を張つて天下を横行する人でした。小暮禮子といふ當時十六、七歳の少女も加はつてゐました。小暮孃は後の銀座襲撃事件の主動者となつた黒色青年の山崎眞道を産んだ人です。
どうしてこんな事件が勃發したか? 世間では大分|揣摩《しま》臆説した向もあつたやうでした。反動政治家山縣有朋が當時の西園寺内閣に對する反間苦肉の策だと如何にもうがつた説を立てる人もありました。ことほど左樣にこの『赤旗事件』は不可解な大騷動になりました。けれども私の見るところでは至極簡單な合戰であつたと思ひます。先に出獄した山口義三を上野驛に迎へた吾々は同驛前で警官隊と小ぜり合ひをしました。交番に引つぱられた一同志を奪還したことも先方にはくやしかつたらうが、廣小路を練つて行く間も、私に付そうて行く指揮官警部の頭を後方からステッキで擲つたものがあり――それは年少な荒畑寒村であつたと思ふ――警部の制帽は地上にとんで落ちました。警部はまつ赤な顏をしてその帽子を拾ひ上げるのでした。如何にも殘念さうに見えたが、上司からの特殊な訓令があつたものか、沈默して私の側を離れず行進するのでした。錦輝館前の赤旗事件はそれから數日後のことであり、神田署は五十名餘りの警官を豫め伏せておいたのです。前後の關係はすぐにうなづけるでありませう。
再度の入獄
赤旗事件が勃發してから間もなく幸徳は上京したと思ひます。バルセローナでフランシスコ・フェレルが死刑になつた時(明治四十二年十月)記念のあつまりでも開きたいと思つて、幸徳のところに相談に行つたとき、幸徳は新宿驛にちかい新町二丁目に居をかまへてゐました。上京當時は巣鴨の方にゐたのであるが、最近新町に移轉してきたのです。門前には常に五、六名の警官が立番してゐるので、フェレル記念會を開いても動きがとれないであらう、といふのでやめになりました。それに當時幸徳は管野幽月と同棲してゐたので工合がわるかつたのかも知れません。幸徳は殆んど一人で『自由思想』といふ新聞型の月刊ものを出してゐましたが、あまり長くはつづかなかつたやうです。管野の問題で、だいぶ非難があり、青年たちが幸徳からはなれるといふことを聞いたので、わたしは、それについて文を書かうと思ひ立ちましたが、幸徳が、かへつてめいわくらしく見えたのでやめました。
わたしは巣鴨獄中で書いた『西洋社會運動史』のノートを整理清書することに精力を集中し、四十二年二月(一九〇九年)には、やうやく大體でき上つたので、どこかで出版したいと思ひ、いろいろの人に頼んでみたが結局だめでした。福田徳三君、河上肇君といふやうな連中も紹介の勞をとつてくれたのですが、本やといふ本やは、身ぶるひして、いやがつた樣子です。大町桂月氏は原稿を見て非常に感激した樣子で、博文館の大橋に談じてみませうと、原稿を持つてゆきましたが、やはりだめでした。この記念の書がやつと日のめをみたのは、大正二年元旦のことで、ある同情ある知人の出資によつて出版することができたのであります。
さてその間に、わたしはまた、第二の筆禍事件にぶつかりました。それは『墓場』と題する『世界婦人』紙上のわたしの文章であります。どういふことを書いたのか、記憶してゐませんが、『この世は墓場のやうなものだ、生きた人間はめつたにゐないで、幽靈や惡鬼どもが、墓石の間から、ぬけでて來て到るところに陰險な惡事をはたらいてゐる』といふやうなことを書いたのではないかと思ひます。いろいろの都合で裁判をひきのばし、刑が確定していよいよ入獄となつたのは明治四十三年三月ごろであつたと思ひます。
わたしの入獄がきまつた時、わたしは母の突然の死に會ひました。なにしろ二度目の入獄なので、母はよほど心にこたへたと見えて、『わたしはお前が惡人だとは、どうしても思へない。警察へ行つて談判してやる』と言つてくやしがつてゐました。兄がなだめて『お母さんが幾ら談判しても、三四郎の罪がゆるされるものでも、輕くなるものでもないから、それは無駄です、三四郎の仕事は後世にのこる、歴史的な大きな仕事なんだから、お母さんは自慢してよいのです』と、いつもと變つてねんごろに説くのでありました。二人の兄が刑事事件で、長く獄中に生活し、今度は三男のわたしが、二度までも入獄するといふので、老母は相當に心を惱ましたらしいのです。當時上京して、兄とともに飯田町に居を卜してゐた母は、突然腦溢血でたふれ、わたしが飛んで行つたと
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