リスト(農村の貴族)なのでせう」
「私の生まれた家は石川ではなくて五十嵐といひ、農村の舊い貴族と云へるでせうが、石川の方は貧しい農家です」
「ああさうですか。イシカハよりはイガラシの方が、發音が美しいですね。ところで、イシカハやニシカハのシカハとは何を意味しますか? 二つ姓がただイとニとで區別されるのはどういふ譯ですか?」
マダムはフランス語を私に教へるかたはら日本語の研究を始めるのであつた。
「これは石と西とで區別される川を意味する名稱です」
「はあ、ピエール・ド・リビエール(川の石)と、ウエスト・ド・リビエール(川の西)ですか」
とマダムは速解する。フランス語では形容詞を名詞の後に置くのが常例なので、石川を『川の石』西川を『川の西』と解釋したのであつた。
次にマダムから發せられた質問は、『妻君はどうしてゐるか?』といふことであつた。
「私は結婚してゐないから、身輕です」
と言へば、
「どうして結婚しないのですか? 獨身主義なのですか?」
とせめ立てる。
「いや獨身主義ではありませんが結婚の機會を逸したのです。それに私の今の考へでは、結婚は財産權と同じく排斥すべきだと思ひます」
少々うしろめたい氣持でもあつたが、かう言つてのけた。マダムの氣にさはりはせぬかと不安であつたが、意外にも賛成らしい面持で、愉快さうに
「さうですか、この國にも、さういふ論者が澤山あります。しかし、それでこの世の生活が淋しくはないですか?」
「しかし、わたしは、戀はしました。そのために些か狂ひもしましたが、遂に結婚生活はできませんでした。そして今では、自分の妻だの夫だのといふ符牒が、何だか馬鹿げて感じられるやうになつたのです」
「そりや、あなたの仰しやる通りよ。けれどもね、わたし達のやうな友愛生活になると、ちつともさういふ不愉快はありませんよ」
室の一隅に長椅子の上に横たはつてゐるルクリュ翁を顧みて
「ねえ、さうでせう! ポール」
と同意を求めた。
ポール翁は横臥したまゝ、そんなことには答へもせず
「フランス語の稽古をやらんのかい、その方が大切だよ」
と大きな聲で怒鳴るのであつた。
わたし達の對話は英語とフランス語とがちやんぽんに使はれ、話がこみ入つて來ると、英語の方が主になり勝ちであつた。ルクリュ翁の怒鳴つたのはその點についてであつた。そこでマダムはフランス語の發音法
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