的な思索に耽り、人生觀上の惱みに陷る者が少くありませんでした。黒岩氏がその人生哲學『天人論』を著したことは、まことに時代精神に深く觸れるものがあつたと言へるでありませう。一高の學生の藤村操といふ青年が、日光の華嚴の瀧の巖頭に一感想文を記して、自らその瀧壺に投身した事件は、『天人論』ができた直後のことでありました。そこで黒岩社長は直ちに藤村問題をとり上げて萬朝報紙上で論じたてました。『天人論』が盛に引きあひに出されたことは勿論です。そして『天人論』は飛ぶやうに賣れました。
 萬朝報は當時の知識的青年に熱愛された新聞でありましたが、それは黒岩氏のケイ眼がよく時代青年の心機を把へた結果であつたと思ひます。私のやうな若ものをもとらへて夜を徹して論議して倦むことを知らなかつたのも、かうした底意があつたからでありませう。黒岩氏が新聞記者として非凡な人であつたことが察せられます。
 ところが、この非凡な黒岩氏の新聞社内に一大問題がぼつ發しました。それは單に一新聞社の問題といふよりは寧ろ日本の、日本民族の、否更に世界人類の運命にかかはる重大問題でありました。日露間の戰爭の危機が切迫したのであります。明治三十六年(一九〇三年)の夏には日本の國論が沸騰して猛烈な勢で對露開戰論が唱道されました。萬朝報社でも黒岩社長や主筆格の圓城寺天山氏は開戰論者でありました。これに對して客員である内村鑑三氏や社會主義の幸徳秋水、堺枯川兩氏は非戰論を主張しました。私は會議室の隣で事務を執つてゐたので、兩派の對論をしばしば聞くことが出來ました。新參の若者であつた私は、その議論に加はり得なかつたのは勿論、その議論を聞くことも遠慮がちにせざるを得ませんでした。しかし私のほのかに察するところでは、堺氏の論鉾が最も鋭かつたやうに思はれます。内村氏は以前自ら非常な難局に遭遇した際に黒岩氏の厚い援助を受けた關係があり、幸徳氏は黒岩氏と同國人であり、かつ、その文才を愛せられて特に高給を與へられてゐた關係にあり、ともに黒岩氏に對しては極めて遠慮がちでありました。退社の際なども、堺氏がぐんぐん二人を引つぱつたらしく私には感じられました。堺氏は退社の直後私にいひました、『人間は決して腕前一ぱいの給料を取るものではない。いつ扶持にはなれても何處へ行つても自力で生活できる自信を持ち得ないと弱くなつて恥をかく』。非戰論で退社する時の
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