母になつた彼の女も些か私の行動にあきれた樣子でありました。そして突然福田家から姿を消してしまひました。彼女に對する愛情が私にないものと感じたのかも知れません。それも彼女としては無理ではなかつたのです。私が心身を狂はした眞情を察することは、彼女にとつては不可能であつたのです。
 一波は萬波を呼ぶ。一つの波が消え靜まつたと思ふと、そのあとは幾つもの波が起つてゐました。犯した罪から免がれようとする私はそのために悶え狂つて、どこにでも慰安を求めようとする。急の夕立に追ひまくられて、どんな木蔭、どんな軒端をも頼みにして驅けるやうに、少しでもやさしい異性を見ると、すぐにそれに近づくやうになりました。
『男らしく一本立ちになつて、勉強しなさい』と元氣づけてくれるのは福田未亡人でありました。從つて福田氏は私が養子縁組みを解消することには賛成でした。ところで縁組を解消する以上は、その親戚である今までの下宿に居るわけに行かない。私は學校に近い猿樂町の下宿屋に轉居しました。しかし、そこにも長くは居れませんでした。生活費が餘りに高まるからです。私は一人の友人と相談して普通の家庭の一間の二階に同宿することになりました。生活費は今までの下宿屋の半分で足りるので、學校を卒業するまでの視透しも出來るやうになりました。
 その家は飯田町の中阪に近いところでありました。老母と二人娘と末の男の子と四人の家庭でありました。その家の次女は高等師範の生徒なので日曜日毎に家に歸るだけでありました。從つて平生は近所の小學校教師の長女と、中學生の息子と、その母親との三人暮しでありました。父親はどういふ事情か二ヶ月に一度ぐらゐしか姿を見せませんでした。横濱に住んでゐたやうでした。この家に移つてからは、粕谷義三氏から毎月十圓づつ送つてくれるやうになり、不足は親戚や友人から補充されることになつたので、私は安心して勉強し得るやうになりました。
 ある時法學院に全校學生の討論會が催されました。この學校へは餘り顏を出さない私ではあるが、いささか討論に興味をそそられてそれに參加しました。勿論優勝など豫期した譯ではなかつたが、原嘉道、馬場愿治兩氏の審判で、不思議にも二等賞が授けられました。大いばりで歸宅して、宿の老母にそれを見せると、お婆さんは、わがことのやうに喜んでくれました。その當時南洋から歸つた佐藤虎次郎氏や粕谷義三氏の手紙
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